言わずと知れた、この作曲家の代表作。実際のコンサートの舞台を見ると、第1小太鼓奏者の、それは小さな動きが少しづつ波紋のように管弦楽に広がります。奏者たちの動きは少しづつ大きくなり、そして最後は大きな渦となって、演奏会場の空間を満たすのです。音色の効果のみならず、視覚効果も併せて備えた稀にみる曲でしょう。
それを連弾にしてみると、音色と視覚効果が、いかに重要になるかか、それは良く分かります。はっきり言って、この作曲者自身による編曲、聴いている側には、ちっともおもしろくありません。「連弾編」を演奏会に持ち出すのは止めましょう。労多くして、益皆無。合奏のレヴェルは、それほど高い物を要求されません。ただし各奏者ごとの技術レヴェルは、たとえば「全音楽譜:第5レヴェル」程度のものが必要です。加えて2人の手の交差が非常に多く、相当綿密に打ち合わせをしないと、意図するような演奏はできません。
ただし、この編曲にも効用はあります。まずは、通常の管弦楽版と比較して、いかに管弦楽の色彩効果がすばらしいものであるかを認識できることです。
次なる効用は、忍耐力の養成です。この連弾版の演奏は、はっきり言って「苦行」です。同じ旋律を、延々たった2人で繰り返さなければならないのです。しかも、どんどん音が厚く、難しくなる。加えて、セコンダは全曲のうち、わずか16小節を除いて、あの「タン、タタタ、タンタタタ、タン、タン、タン、タタタ、タン、タタタタタタ…」を、延々と打ち続けなければならないのです。もう「修行」意外のなにものでもありません。リズムとテンポ持続の練習にもなります。また、連弾における「譲り合いのこころ」を養成するためにも、効果が上がります。
もう1つの効用は、楽器を持って集まった人たちのパーティーなどで使えること。連弾奏者は楽譜のままに演奏を進めるのですが、楽器をもった人たちが、次々と連弾に合わせて旋律を演奏するのです。任意に演奏に加わって任意にお休みして。洋楽器だけでなく、尺八、お琴、三味線で参加するもよし、お箸でお鍋やお皿を叩いてもよし、です。わたくしたちの経験では、それは楽しいものがありますよ。
この曲に関して、書くこと、弾くこと、わたしたちは躊躇してしまいます。書こうとすれば、いくらでも「ありきたり」なことは書けます。弾くことだって「ありきたりに合わせる」ことはできます。しかし、書くも弾くも、非常にやりにくい曲であることには変わりありません。
能書きはそれまでとして、この曲の「難しさ」は、曲の持つ簡潔さにつきるでしょう。音は薄く繊細です。テクニックの面から見ると一見誰にでも弾けそうですが、これがなかなか。合奏の技術に着目しても、ちょっと目にはとても合わせ易そうに見えます。
ところが、きれいに響かせようとすると、意外と難物です。両方の奏者が、それぞれのパートを完璧に弾いて、かつ2人の音が完全に合わないと、ものすごく濁った、それは汚い響きになってしまいます。ペダリングを相当に工夫しないと、せっかく合わせても、きれいな響きにはなりません。ひとえにそれは、ラヴェルが譜面に記した和声の扱い——後期ロマン派近辺における和声法の中で許しうる非和声音を、極端なまでに拡大解釈し多用している点にあるのではないか。わたくしたちは、そのように捉えております。
加えて曲が非常に「簡潔」に書かれているため、良い意味でも悪い意味でも、誤魔化しようがないのです。それに、曲に表情をつけて演奏しなければならない、というハードルが待ち受けています。これらの条件をすべてクリアしてはじめて、この曲の演奏が成立するのではないでしょうか。もちろん、どんな曲でも同様のことが言えます。しかし、奏者の欠点が露骨に出てしまう、という点では、この曲の右に出るものはないでしょう。
もっとも、個人的に弾いて遊ぶ分には、申し分ない、楽しい曲です。わたしたちも時折、ピヤノに向かってコトコトと、この曲で遊んでいます。
原曲は、M.Ravel最後のピヤノ独奏曲。ただし、あの「Le tombeau de Couperin」をそのまま4手連弾にした作品ではありません。Ravel自身の管弦楽編曲を、さらに連弾に書き直しております。楽譜の表紙にも16ポイントくらいのフォントで「Suite d'Orchestre」と明記されております。そのため6曲で構成する原曲のうち、第2曲「Fugue」と第6曲「Toccata」が含まれません。しかも曲順も、「Prelude」「Forlane」「Menuet」「Rigaudon」と、後半2曲の順序が入れ替わっております。
さてこの編曲。ひとことで表現すれば「佳人のそっくりさんの薄化粧」。もともとのご本人、お化粧したそっくりさん、どちらも魅力的です。そして、見かけ上はとてもよく似ている。しかしながら、実際は別人。・・・と、こんな回りくどい表現をしたのは、次のような理由からです。まず、原曲から管弦楽に編曲した時点で、すでに別人。さらに管弦楽から連弾に編曲したら、出来上がった作品は管弦楽とは別人。しかも、同じピヤノを使用するとは言え、原曲と連弾では2度の編曲作業がほどこされているため、似てるようで、これまた完全に別人です。結果的に「似たようなもの」に仕上がっているとしても。
その「薄化粧」。原曲との比較です。2本の手のための原曲を、4本用に振り分けます。その上で、旋律をオクターヴ方向に移動させたり、管弦楽用に付加された装飾を盛り込んだりして、和声と動きに若干の厚みを加えております。この「若干」というところが鍵。原曲の持つ「繊細さ」をそのまま残すところとなっています。そして原曲の内声部および対位法的側面が、かなりくっきりと浮かび上がっております。
技術的に見ると、原曲と比較して各奏者にとっての演奏負荷は、かなり軽減されます。ただし、両奏者の手は頻繁に接近します。セコンダの右手とプリモの左手の間での旋律の受け渡しも続出。音が濁らないように、ペダリングには要注意。また(1)2人で弾く、(2)持続が一部原曲と異なる、などの理由から、原曲と同じペダリングでは無理がありますので再考が必要。楽譜にはほとんどペダリング指定がないのですが、なぜかPreludeの最後だけ、ぽっかりと指示がしてあります。
この編曲を「キワモノ」ととるか、「素敵な連弾曲」ととるかは、奏者および視聴者によって受け取り方は異なるでしょう。わたくしたちは、とっても素敵な曲だと思うのですが・・・。みなさんは、如何?