其の拾四 「連弾は家庭用」???--愛読コラムでガッカリ
普段から楽しみにしていた連載があったとしましょう。新聞でも雑誌でも結構です。そうした連載で、自分に関連する話題が出ることは嬉しいものです。しかしそれが的はずれだったり、読者をミスリードする内容だったらどう感じるでしょう? がっかりを通り越して、怒りが涌いてくるケースもあるのではないでしょうか。これが最初から相手にしていないものだったら、何の感情を持つこともなく無視してしまうでしょうけれど。今回は、毎回楽しみにしている新聞コラムで読者をミスリードするような内容を見てしまい、怒り狂ったというお話しです。
ある新聞記事を見た、わたくし。思わず怒り狂いました。ピヤノ連弾に関して、まったく誤った認識が堂々と書かれていたからです。「まったく」というのは、ちょっと語弊があるかも知れません。言い直せば、一時代前の認識、あるいはピヤノ連弾の一側面のみに焦点を当てての紹介が載せられておりました。これが素人の記事であれば、まだ許せますが、高名な音楽評論家がクラシックの初心者を対象に書いた記事であるところに大きな問題があります。これでは連弾のことをあまり知らない人たちに大きな誤解を与える、非常に不幸な結果となることは確実です。
問題の記事(コラム)は、2000年11月30日付け「毎日新聞」朝刊。東京最終版では、27ページに出ていた記事です。筆者は音楽評論家の岩井宏之氏。コラム名は「岩井宏之の音楽教室」。
誤解のないように申し上げておきますと、わたくしはこのコラムの愛読者です。このコラム、毎週木曜日の掲載で、岩井氏による楽しく面白いクラシック解説が連載されております。わたくしは、このコラムを読むことを、木曜朝の楽しみにしています。仕事を始める前、あるいは半夜勤明けのときに「休憩中の爽やかな読み物」として手に取っておりました。
いつもは楽しみにしているコラムなのに・・・ |
しかし今回(第72回)ばかりはちょっと許し難い内容でした。タイトルを見て一瞬期待したのですが、読んでみてがっかり。いや、冒頭で申し上げたように、がっかりを通り越して怒り狂った次第です。タイトルは「弾いて楽しい連弾」。以下、主要部分を引用させて頂きます。(注:この引用は著作権法に基づいて、適法な範囲と用途での引用です。すべて表記は原文のまま)
(引用ここから) 2台のピアノを2人のピアニストで弾く「白と黒で」は、本来、演奏会用の作品である。これに対して1台のピアノを2人で弾く連弾(四手同弾)は、家庭内音楽の趣が強い楽種であり、こちらの方からポピュラー名曲が生まれた。ブラームスの「ハンガリー舞曲」を筆頭に、ドヴォルザーク「スラヴ舞曲集」やシューベルト「軍隊行進曲」「幻想曲ヘ短調」などがそうだ。聴く側に回るより弾く側に回った方が楽しい---これが連弾。アフターファイブのピアノ教室でブラームスが弾かれる日も、遠くないのではないか。 (引用ここまで。本文もここで終了)
で、何故わたくしがこの文章を「連弾に対する認識の誤り」としたのか。あるいは旧態依然の認識、ないしは連弾の一側面を拡大解釈して読者に紹介している、として怒り狂ったのか。
ちなみに、わたくしが大変に残念に感じ、なおかつわたしの怒りが増幅したのは、筆者の岩井氏は「連弾て、とても楽しいよ」と言うことを、このコラムを通じて読者に紹介されようとしていらっしゃったこと。そのこと自体は、非常に歓迎すべき論調です。にも関わらず、誠にお粗末な紹介になっていたからであります。
●連弾は単なる家庭内音楽か?
ポイントは2つあります。ひとつは「連弾(四手同弾)は、家庭内音楽の趣が強い楽種であり」、もうひとつは「聴く側に回るより弾く側に回った方が楽しい---これが連弾」---という筆者の独断と偏見に満ちた記述です。これをストレートに受け取ると、連弾とは家庭内音楽でありコンサートには向かない、そして弾くのは楽しいけれど聴く側に回るものではない、と解釈できます。筆者にそういう意図がないのであれば、文筆業として非常にまずい失策です。何せ「聴く側に回るより弾く側に回った方が楽しい---これが連弾」と断じているのですから。
筆者の誤認識および独断に関して言及しましょう。
まず最初のポイントである「連弾は家庭内音楽の趣が強い楽種」。確かに旧来はこうした捉え方が一般的でした。それは否定しません。しかし、この20年の間でこうした認識は相当に変わりました。旧来は連弾曲と言えば、いわゆる「非常にポピュラーな名曲」しか楽譜の入手もしづらく(特に日本では)、録音物も演奏会も少なかったわけです。勢い「連弾は家庭内音楽の趣が強い楽種」という楽曲の位置づけに走らざるを得なかった側面はあります。
こうした位置づけは、連弾という楽曲カテゴリにとって、大きな不幸でした。何せ、連弾はあくまでもレッスンや楽しみのための楽曲であって、通常のコンサート・ステージに載せる代物ではない、という認識が広まり、連弾曲の地位を不当に低いものとして貶めていたからです。連弾専門の演奏家などは、ピヤノ界(演奏者も聴衆も)において「特殊人物」とまでされてきた経緯があります。
しかしここにきて、こうした旧来の認識は大きく変わりつつあります。優れた連弾演奏家たちが次々に登場し、彼らがコンサートや録音で優れた連弾曲を世に紹介し、そして優れた連弾曲たちの楽譜も日本で容易に入手できるようになりました。今や連弾は、ピヤノを使った室内楽としての地位を確立しています。
にも関わらず、「連弾は家庭内音楽の趣が強い楽種」という旧態依然の連弾に対する価値観を全面に打ち出して、一般の新聞読者を対象に紹介するとは、音楽評論家として何という悲しい行いでしょう。これでは連弾曲の紹介や普及に貢献した演奏家や研究者たちの努力を台無しにすることに他なりません。
別の見方をしてみましょう。確かに前期ロマン派や一部の後期ロマン派に分類される曲は、大半が家庭内での楽しみや愛好家同士の「遊び」のために作られた作品が大半です。しかし後期ロマン派以降、ピヤノ音楽における連弾の位置づけは大きく変化した筈です。
例えばM.レーガーの連弾曲(管弦楽からの編曲も含む:以下同じ)など、家庭向きと言えますか? C.ドビュッシーは? M.ラヴェルは? フローラン・シュミットは??? S.ラフマニノフの「6つの小品
Op.11」や彼自身の編曲による数々の連弾名作、P.ヒンデミットの連弾のためのソナタ・・・これらが単なる家庭向け、ないしはお遊び用と言えますかね。立派なコンサート用名曲に他なりません(もちろん家庭内での楽しみにも利用できますが)。「お前は、特殊なものばかり挙げているのではないか」という方もいらっしゃるかも知れませんが、答えは「ノー」です。
確かに後期ロマン派以降も「お楽しみ用」の曲はたくさんありますが、ソロの曲だって同じ事。ソロだって「お楽しみ用」は、たくさんありますね(そもそも、「お楽しみ用」と「コンサート用」の線引きなど難しいのですが、ここでは「作曲の目的」をポイントとして暫定的に考えてみました)。逆に連弾曲も、明らかにコンサート用に作曲された作品は、それこそ数え上げたら切りがないほど存在します。
もちろん、「お楽しみ用」だからといって音楽(芸術)的価値が低い、などとは申しません。音楽は聴く者、弾く者にとって、楽しめればいいのですから。そして、元々は「お楽しみ用」であっても結果的に非常に高い芸術性を備えた作品も、たくさんある訳です。W.A.モーツアルト、F.シューベルトの諸作品を挙げるまでもありません。しかしながら、誠に残念なことに「お楽しみ用」だからという理由で、連弾が(特に日本に於いて)不当に低い位置づけとされた過去は、否定できません。
さらに、連弾はピヤノ1台あれば、誰でも容易に取り組める、と言う手軽さが大きなメリットであることは言うまでもありません。お家で手軽に「交響曲の演奏」を楽しんだりすることもできます(「おうちでやるぞ、交響曲」参照)。でもそれは、連弾の持つ一側面であることも事実です。
こうした音楽史、あるいは演奏史の事実にまったく触れず、「連弾は家庭内音楽の趣が強い楽種」と記述するのは、読者をミスリードする以外の何物でもありません。音楽評論家という音楽のプロが連弾について書こうとするなら、この程度のことはきちんと把握して書くべきです。もしこれらの音楽史内における連弾の位置づけ、そしてコンサート・ステージに乗せられる立派な多くの曲たちの存在を知らないなら、こうした文章は書くべきではありません。知らずに書いたなら、評論家として失策でしょう。経済記者が財務諸表の読み方も知らずに決算報告記事を書くようなものですから。ここで、まず怒りの一発目が爆発。わたしが担当デスクだったら、この時点で即座に筆者に書き直しを命じます。
●アルゲリッチ様に対しても「キミの連弾はつまらない」?
そしてもうひとつのポイント。「聴く側に回るより弾く側に回った方が楽しい---これが連弾」。これはもう、筆者の独断と偏見に他なりません。何をどう評価しようが言論の自由が保障されている以上、筆者の考えを書くことはどうにも止められません。しかしそれを「これが連弾」と強烈に決めつけることができるものでしょうか? 察するに筆者は優れた連弾の演奏を聴いたことが皆無である、または、どんな演奏を聴いても「所詮は連弾でつまらないモノ」と聞こえてしまったとしか考えられません。
例えば、タール&グロイトホイゼン、デュオ・クロムランクの数々の名演。あれはいったい何だったのでしょうね。そしてこの筆者は、連弾演奏を終えてきたアルゲリッチ様と伊藤京子さんに、「やっぱ、連弾は聴くモノではなく、弾いてこそ楽しいモノだね」と、面と向かって言えるのでしょうか?
恐らく「聴く側に回るより弾く側に回った方が楽しい---これが連弾」と断言する筆者は、これらの演奏をすべて否定し、どんな一流演奏者に対しても「連弾はステージに乗せるもんじゃないね」と、きっぱりと仰ることができるのでしょう。もちろん個人の好き嫌いはあるでしょうけど、そうだとしたら音楽評論家として非常に不幸ですね。
わたくしは個人の好みを否定するつもりはありません。そして連弾だって、毒にはなれど薬にはならない救いようのない演奏がたくさんあることも事実です。それは、どんな音楽だって同じです。問題なのは、こうした「一方的な決めつけ的」発言を天下の公器とも言える一流新聞の紙面で、一流音楽評論家の立場で、一般の読者に対してプレゼンテーションすることです。連弾のことを多少なりとも理解している人は、こうした発言を読んでも「何だ?」と受け流せますが、そうでない大多数の読者の方は、「連弾て、そうしたものなのか」と「理解」してしまいます。ここで再度、読者をミスリードしてしまう結果となることが容易に想像できます。そのことを考えて、2発目の大爆発です。
●言葉足らずが、折角の善意を台無しに
これまで拝読してきた岩井氏のコラムは、どれも楽しく立派な出来だっただけに、今回の分は恐ろしい失望感と怒りを覚えた次第であります。本当に残念なことです。あえて筆者の「味方」をすると、今回のコラムは言葉足らずだったのかも知れません。でも、「言葉足らず」は評論家やジャーナリストにとって命取りであることは、厳然たる事実であります。
ちなみに岩井氏は、同コラムで「2台ピヤノ用作品は演奏会向き、連弾は家庭/お遊び向き」と分類されていらっしゃいます。でもね、わたくしなんぞピヤノの腕は一般幼児並みですが、家庭において妻と一緒に2台用ピヤノ作品を「楽しくお遊びで」弾いておりますよ。
いつもは楽しく立派な文章で、クラシック音楽の楽しみを紹介して下さっている岩井氏が、こと「連弾」に関して誤った認識、ないしは言葉足らずで、こうしたテーマと内容で執筆されたことは誠に残念であります。普段、きちんとした文章を書いてないような人のコラムだったら、わたくしはこれほど怒り狂うこともなかったでしょうし、わたしたちのサイトでも無視したことでしょう。
実はこのコラムが掲載された毎日新聞をオフィスから自宅に持ってきて妻に見せ(自宅では朝日と日経、日経産業しか購読していないものですから)、「この見方は一面的過ぎるよ」と申したところ、わたくしとほぼ同様の感想を、妻も抱いたのでありました。妻はコラムを拝読後、「何これ。ダメじゃん」と、ひとこと。
岩井さん、普段は正確で素敵なコラムを書かれていらっしゃるのに、どうして「連弾に対して、こんな中途半端」なことを、お書きになったのですか? 本当に残念です。(2000年12月2日)
(注)折角ここまで書いたので、これをコンパクトにした「感想文」を、毎日新聞社の担当記者宛に送付しました。