ぱぐぱぐI.ストラヴィンスキの作品ぱぐぱぐ
Igor Stravinsky
(1882〜1971)



☆ 春の祭典 ☆
The rite of spring
作曲年代:1913
管弦楽曲
演奏形態:れんだん
参照楽譜:Dover
参照CD:Guher & Suher Pekinel
DG 473 650-2


古今東西の連弾曲の中で、最も難しい曲として挙げることができる1曲です。ここで言う「難しさ」には、2つの意味があります。まず、ピヤニスティックな意味での難しさ。そう、ピヤノ曲が持つ本来の意味での難しさです。幅広い音域の中での素早い動き。A.ScriabinやF.F.Chopin、F.Lisztのエチュードを思い浮かべて頂ければ結構です。そして、もう1つ。「連弾」としての難しさ。両奏者の合奏技術、ペダリング、そして両奏者間で生じる非常に複雑極まりない交差と接近。

管弦楽曲をピヤノ曲に編曲する際、何の考えもなく、ただ単に「管弦楽の動きをピヤノで再現する」ことだけを狙うと、ソロであれ連弾であれ、思いも寄らない相当に演奏困難な曲に仕上がってしまうケースがあります。そのように奏者のことなど考えずに編曲した、という的確な事例として、J.S.Bach作曲M.Reger編曲の「ブランデンブルグ協奏曲」があります。もっともこのブランデンブルグの場合、「わざと弾きにくく書いている」のではないかと編曲者の「悪意」すら感じますが。ところがこの「春の祭典」、各パートごとに見ると、実に合理的なピヤノ書法になっているのです。単にそれが、極端なほど難しいだけ。

こうした奏者ごとの「演奏困難性」をはるかに上回るのが、交差と接近。仮にうんと易しい曲であっても、交差や接近の程度によっては、恐ろしく弾きにくい曲になってしまいます。例えば、Beyer教本の88番か、104番、105番を用意して下さい。ひとりの奏者(第1とします)は楽譜通りに、もうひとり(こちらが第2)は左手/右手ともちょうど楽譜に記載された1オクターヴ下を相方と並んで同時に弾いてみましょう。両奏者の手が交差/接近し、絡み合って、それは弾きにくくなりますね。特に第1の左手と第2の右手は、始終重なり合うことになります。演奏は、1人で弾くことに比べて、何倍も困難になってしまいますね。こうなるとはもう、「演奏」の「難しさ」は、各奏者の演奏技術とは別のレベルの話になってしまいます。もっとも、まったくの無関係ではありませんが。

今、例題としてBeyer教本を持ち出しましたが、各奏者が同様な演奏形態で弾きこなさなければならない技術レベルがF.Lisztの「鬼火」やA.Scriabinの作品8-12クラスだったらどうでしょう?

ここでさらに、合奏の難しさを加味してみましょう。「春の祭典」。原曲はわたしたち夫婦でも、かなり親しんで聴いている曲です。原曲(?)ではファゴットのソロが奏する冒頭のほか、何カ所か弾いてみましたが、とにかく「合わせる」のが難しい。しょっちゅう聴いていて、自分が弾いているパートが、原曲ならどの楽器が担当するのかが分かっていて−−つまり何を、どう弾けば良いか、そしてどんな「音」になるかは、頭では理解している状態−−いるにも関わらず。

「連弾・春の祭典」、それらすべての「難しさ」が、束になってかかってくる曲なのです。現実の演奏会や録音では、交差/接近の問題を回避するために、2台に振り分けて弾くことが通例になっています。それでも、表現上の問題はまったくありません。むしろ「連弾」で弾くケースのほうが特殊でしょう。バレエのリハーサル、自宅でのお楽しみ、どうしても1台のピヤノしか用意できない演奏会場。あるいは、「連弾の極限」をあえて追求するための演奏会や練習、奏者間にある愛の誇示、そして合理的なマゾヒズムやセクハラ。

さて、作品そのもの。目の覚めるような連弾曲です。決して原曲の「代用」ではありません。むしろ「別物」といった方が良いでしょう。にも関わらず、日本の商業音楽雑誌で、この曲がまともに取り上げられるようになったのは、90年代も半ばに入ってから。それ以前の扱いは非道かった。もう20年以上前、世界で初めてこの曲を「コンテグリア兄弟」という方々が録音しました。2台に振り分けた演奏です。わたし(夫婦デュオの下手な方)も、当該録音を聴きましたが、それは衝撃的でした。いま思い返しても素敵な演奏でしたよ。

ところが音楽雑誌の批評家は、一斉に非難しましたね。曰く「管弦楽のような色彩感がない」「管弦楽のような力感に欠如」「所詮はピヤノ」「管弦楽の代用に過ぎない」、挙げ句の果てに「この曲を連弾で初演した作曲者とドビュッシの演奏はどんなものだったかな、と思いを馳せるだけである」。当時購読していた「レコード芸術」と「音楽現代」に載った批評は、このようなものでした。当該誌を処分してしまったため筆者が特定できないのですが、批評を読んで、評者を「ボコボコ」にしてやりたい心境でした。どちらのお方でしょう? この評者。最初から「所詮はピヤノ」と「馬鹿にした」書き方だったことを覚えております。今、思い返しても、こいつらは許せません。演奏が非道かったならともかく、最初から馬鹿にした姿勢で取り扱っていたのが、文章に如実に現れていたので。もし、筆者にそうした意図がないのであれば、文章が下手だったのでしょう。

なお、この曲の出典には分からないことがあります。わたくしたちが参考書としている「ピアノ・デュオ 作品事典」(松永晴紀著・春秋社)には、「(Dover、Booseyともに)1947年版による」と明記されております(かっこ内筆者注。そうとした読めない)。ところが、わたくしたちが手元で参照しているDover版は、「Edition russe de musique,1914」のレプリント。しかも、手元にある1913年版のフルスコアと突き合わせると、数カ所でリズムの分配が異なるだけで、明らかに1913年版を連弾に移した、あるいは13年版のベースとなった楽譜なのです。松永氏は、Dover版とBoosey版の差違を「いけにえの踊りで5拍子(Dover)を2拍子と3拍子に分割(Boosey)している」と指摘していらっしゃいますが、これは13年版と47年版(いずれも原曲)の差違そのものです−−筆者が銀座・ヤマハで原曲スコアに関して「楽譜の立ち読み」をした結果−−。さて、真相はいかなるものでありましょう? まあ、弾く上/聴く上では、どちらの版でもどっちでも同じなのですが、若干気になったもので。




☆ ペトルーシュカ ☆
Petrushka
作曲年代:1911
管弦楽曲
演奏形態:れんだん
参照楽譜:Dover
参照CD:Tiziana Moneta & Gabriele Rota
SIPARIO CS18C

 「春の祭典」と同様に、あらゆる意味で演奏困難な連弾曲です。ある意味で、作曲者(=編曲者)の演奏者に対する「サディズム」すら感じられる作品です。恐ろしくピヤニスティックで華麗な作品でありながら。基本的な編曲手法/傾向は、「春の祭典」と同じです。

 個々のパートは、超絶技巧の連続。そして2奏者の手は接近/交差が頻繁に生じます。さらに奏者の前に立ちはだかるのは、非常に高度な合奏技術! 言わば
「連弾の北極点」。「体育会系」の皆々様に、是非とも御挑戦頂きたい作品でございます。

両奏者の手が、縺れます

こうした「難所」が、あちこちに


 「編曲物」という点で見ると、完成度は極端に高く、原曲である「バレエ音楽」とは、まったく別の存在意義を持つ作品です。平凡な「何でもいいから、管弦楽をピヤノ連弾用にしてしまえ」というレベルの編曲物とは、一線を画します。

 しかし、それにしても難しい! そもそも1台4手では演奏不可能な箇所もちらほらと。

こうなると、もう滅茶苦茶。1台4手で弾くのは不可能です。無茶以外の何物でもありません。


 この箇所は極端な例ですが、2人で並んで演奏すると、弾き辛いこと夥しいです。現在では「春の祭典」(連弾版)と同様、2台に振り分けて演奏するのが一般的になっております。手元にあるDover版は、ご丁寧にも「
1台4手では演奏不可能な箇所がある」と但し書きがついております。しかしながら、あえて1台4手で演奏したCDも存在します(Tiziana Moneta & Gabriele Rota)。演奏者が意地になったのでしょうね、きっと。奇特な方がいらっしゃるものです。ご苦労様なことです。

 なお「ペトルーシュカ」(原曲)には、1911年版と1947年版があります。連弾版も原曲と同じく、11年版をベースにした編曲と47年版を採用した編曲が存在します。どちらもあまり大きな差違はありません。わたくしの手元にあるのは11年版ベースの編曲です。楽譜は原曲/連弾版ともに、11年版はDoverから、47年版はBoosey & Hawkesから出ています。

 Doverから出ている11年版ベースの連弾楽譜は、独Edition russ de musiqueが1913年に出版した楽譜のレプリントです。「両版とも47年版がベース」としている資料もありますが、それは明らかに誤りです。「春の祭典」(連弾版)と同じく、Dover版とBooseyの差違は、原曲における11年版/47年版の差違そのものです。

 ちなみに「2台用編曲」がありますが、こちらは未参照です。