大バッハです。2台チェンバロのためのオリジナル作品はいくつかありますが、オリジナル連弾の作品は、今のところ、わたくしたちも含めて、誰も把握していません。もっとも、当時の楽器状況を考えたら、果たして大バッハと言えども「連弾」と言う演奏形態を考慮したでしょうか? 幸い、オリジナルでなくとも、素敵な連弾の曲はいくつかあります。もし、オリジナル連弾曲の存在をご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報頂きたい次第です。
カンタータ第140番、4曲目、変ホ長調のコラールです。独奏ピヤノではWilhelm Kempff氏の編曲が有名でした(Bote & Bock、および全音)。2台ピヤノ版はW.G.Whittaker氏の編曲で、英Oxfordから出版されていました。しかしこの魅力溢れる曲の連弾版は、どこを探しても、なかなか見つかりませんでした。ところが1996年になってPetersが、さまざまな曲の連弾編曲集を出した際に、この楽譜が入っておりました。実に幸せなことです。
この編曲、実にピヤニスティックで、かなり高い質に仕上がっています。ただし出だしの旋律--プリモが受け持つ--が、原曲、Oxford版、ピヤノ独奏版の1オクターヴ上で始まっています。そのため、この連弾版は他の版と比較して、かなり高音が強調されたキラキラした編曲となっています。しかし、原曲の持つ「穏やかさ」は失われていません。優れた編曲と言えましょう。
弾く上で、特にテクニックは要求されません。ソナチネ・アルバム修了程度であれば、楽しく弾けるでしょう。ただし、プリモの左手とセコンダの右手がかなり接近しますので、ポジションには要注意。さらにポリフォニックな表現をしようとしたら、各声部を分析した上で、音のバランス配分に相当の配慮が必要となります。また、ペダリングが一切記述されていないので、すべて奏者自身が決めなければなりません。音が濁らないようにペダリングを決めるのは、かなり厄介です。
なお、テンポの指定は、独奏版が「Andante poco mosso」、2台版が「Moderato」、そしてこの連弾版が「allegretto」となっていますが、あまり気にする必要はないでしょう。はっきり言って、好きなテンポで弾けば良いのですから。原曲をあえて意識しなくても(かえって意識しない方が)素敵な演奏になるでしょう。
実に壮麗な編曲です。しかしながら、生身の人間が気楽に弾けるものではありません。百歩ゆずっても「並の人」が弾ける曲ではありません。
ピヤノ曲を難しくする要素は、いくつか挙げられます。ひとつは表現上の問題。例えば非常に細かい音の動きであるとか、オクターヴのパセージ。大きな跳躍や幅広いアルペジオ、など。もうひとつは、弾きにくいフレーズ。例えば3度や6度による和音の連続進行。(これらの例については「超絶技巧ピヤノ医師:夏井さん」が具体例を挙げて適切な解説をしていらっしゃいます。)
そしてもうひとつ。「管弦楽や室内楽曲を、あまり深く考えずにピヤノ曲に編曲した事例」が挙げられます。
確かに細部ごとを見れば、きちんとしたピヤノ書法になっており、表現上も無理はない。フレーズの作り方、強弱、スタカート/テヌートの使い分け。そのまま演奏すれば、非常に演奏効果の上がる素晴らしいピヤノ曲として仕上がっている。ただし、「そのまま演奏できれば」の話ですが。そう、ピヤノ曲としての演奏効果を持たせながら、あまりにも原曲に対して忠実に編曲したがために、結果として超難曲に仕上がってしまった例です。
ここに単純な旋律があるとします。バロック様式の単純なものと考えて下さい。ピヤノを少しでも弾いたことがある人なら、誰でも弾ける旋律です。さて、その旋律に3度上方、または6度上方で平行するフレーズをつけて、片手で弾いてみましょう。あるいはその旋律を使った、2声のフーガを片手で弾いてみましょう。かなり難しくなりますね。そうして弾いているところへ、同じ音域でもって左手で、別の旋律を重ねてみましょう。最初の旋律に対するオブリガトのようなものを想像してみて下さい。右手と左手が上に来たり下に来たり。これで最初の旋律は、いっそう弾きにくくなるはずです。しかも、左手にも右手と同様に「片手のポリフォニ」を求められたら如何でしょうか? 演奏は格段に難しくなるはずです。
そして、唯でさえ弾きにくい奏者の左側(あるいは右側)に、もう一人の奏者がいるとしたらどうでしょう。そのもう一人の奏者も、彼女(あるは彼)の横にいる奏者と同様の苦難を強いられているとします。さらに、個々に苦難を抱えているにも関わらず、両奏者の手は接近/交差し、自分自身の両手を的確に制御するだけでなく相手の手との輻輳を考慮しなければならない。しかも、呼吸が合わずバラバラになると、曲として成立しない。・・・そう、ここに恐ろしく演奏困難な連弾曲が誕生するのです。
このJ.S.Bach作曲、M.Reger編曲の「Brandenburg Concerts」こそは、これらの要素をすべて包含した曲と言えましょう。指定の速度で、指定の音価をすべて守って弾くのは非常に困難です。その困難を克服できれば、目の覚めるような効果を示す演奏が実現できるのですが。しかし、誰ができましょう? 編曲者のReger自身、この曲をピヤノできちんと弾いたことがあるのか。疑問の残るところです。確かに理屈の上では、立派なピヤノ曲に仕上がってるのですが、わたくしたちは、Reger自身、まともに自分で演奏していないと受け止めざるを得ませんでした。はっきり言って、他人に弾いてもらおうとして編曲しているとは見えません。
両方の奏者に非常に難しいフレーズを与え、さらに連弾として困難な演奏を強いる。そうした曲はいくつか見受けられます。例えばI.Stravinskyの「Petrouchka」や「The
rite of spring」、B.Bartokの「The miracle mandarin」など。これら編曲の実効的用途として、バレエのリハーサルが挙げられます。リハーサルのすべてで3管だの5管だのの管弦楽を雇う訳には行きません。予算上無理があります。連弾ならば、ピヤニスト2人分のアルバイト料で済みます。指揮者や演出家、そのほか偉い人なら、自分の子分でピヤノを弾ける人を、マクドナルドのハンバーガだけで、あるいはデニーズのちょっとしたご飯だけで、さらには「実習」の名を借りた「無償奉仕」で、連弾ピヤニストを使うこともできます。ところが、Regerのこの編曲には、そうした必然性は見あたりません。
この編曲を弾いていて脳裏に浮かんだことが2つあります。ひとつは友人であるピヤニスト「豊岡正幸さん」の語ったところ。氏はある作曲コンクールで最終審査のための演奏を依頼されました。連弾曲です。ところが「指定の速度で、指定の音価で弾くのは不可能」。確かにその曲も論理的には立派に構築されている。しかし人間が弾けるものではない。「この曲を書いた奴、絶対自分で演奏していないな。誰かに試し弾きさえさせていない。無理だよ、こんな曲を人間が弾くのは。頭の中だけ、あるいはパソコンかUNIX機を使って作曲したのではないか」。わたしたちがM.Reger編曲の「Brandenburg
Concerts」を弾いてみて感じたのは、まさにそのこと。「理屈だけで編曲した」。
そしてもうひとつ。自分の右手に自分の左手が重なる曲。そう、J.S.Bachの鍵盤曲にいくつもありますね。例えば「ゴルトベルグ変奏曲」。もともと複数段の鍵盤を持つ楽器のために作曲した曲たちです。チェンバロやオルガン、加えて現代では電子楽器のための曲がありますね。もともとの楽器で弾けばさほど難しくはないのに、指定通りの音をピヤノで弾くと複雑になってしまう、という作品。まさかRegerのやつ、この編曲を得意のオルガンで試し弾きしたのではないでしょうね。確かにこのM.Reger編曲の「Brandenburg
Concerts」も、複数段鍵盤で弾けば、若干は易しくなります。・・・といっても10の難しさが7位になる程度ですけれど。Brandenburg
Concertsを編曲するにあたって、あえて複数段鍵盤を想定した、なんて、意地悪なことは・・・当然考えられますね。これだけひねくれた人だと。そして彼は言うのです。「さあ、ピヤノ連弾のための編曲だよ」、と。
どなたか、挑戦してみませんか?
Max Regerの編曲によるJ.S.Bach、その第2弾。編曲方針はBrandenburg
Concertosとまったく同じ。「管弦楽の動きを、可能な限り完全に、1台4手によるピヤノ演奏で実現する。しかも、ピヤノという楽器の特性を完全に活かして」。Brandenburg
Concertosほどではありませんが、両奏者間における手の交差/接近はもとより、各奏者内における交差/接近が至るところで発生しております。Brandenburg
Concertosと同様に、奏者に対して「苦難」を強いる編曲であることは間違いありません。なぜ「演奏困難」であるかは、Brandenburg
Concertosの項で指摘した通りです。
この曲が、指定の速度で楽譜の記述を指定通り守って弾くことができたならば、実に壮麗な演奏となることは請け合いです。確かに「片手づつ」見たら、ピヤノ書法として、まったく無理がありませんもの。「片手づつ」見たらですけれどね。楽譜の指定を守って4本の手で弾いたら、連弾相手だけでなく、自分自身の手をひっぱたいてしまう箇所がごろごろと。
ただし、アーティクレーションは、かなり細かく指定されております。これはBrandenburg
Concertosのときに指摘しそびれたことでもあるのですが。Brandenburg
Concertos、Orchestral
Suiteともども、これら詳細な指定があることで、「ピヤノで演奏する」ということを強烈に意識して編曲したことがうかがえます。また、Reger自身ががBach演奏に関してどのようなアプローチをとったのか−−Regerはオルガンおよびピヤノによる、Bach作品の優れた演奏家だったようです。わたくし自身はRegerの演奏を聴いたこともないし、直接会って「養老の瀧」で一緒に呑んだこともないため、演奏や思考に関して直接は知り得ませんが−−を知る手がかりになる絶好の資料となることでしょう。その意味で、連弾演奏家だけでなく、BachやRegerの研究者にとっても、非常に参考となる楽譜と言えましょう。一見の価値があります。
さて、このOrchestral Suite。第3番の「Aria」は、あの有名な「G線上のアリア」の原曲ですね。「G線上のアリア」などと言うと、「ゴルゴ13」の表題みたい、と感じるのはわたくしたちだけしょうか?(わたし−−下手くそな方−−だけだろうな、きっと)。それはともかく、この曲だけを後藤丹(ごとう・まこと)さんと言う方が連弾に編曲しています。出版は全音楽譜出版社(全音連弾ピースNo.15)。
この編曲に関して当初、わたくしが「レーガーの編曲と酷似している、云々」と指摘したところ、後藤丹さんご本人から編曲の経緯に関する次のようなコメントを頂きました。
「もう10年くらい前だと思いますが、全音から「アリア」の独奏版をピースのために編曲しないかという話がありました。この曲はご承知の通り最初の音が長く伸びるのでどうもピアノ向きではなく、何回も試行錯誤をし完成し出版にこぎつけました」。
「その直後、全音からちょうどそのころ刊行しはじめた連弾ピースに同じ曲を編曲するよう要請がありました。急ぎだったため、それこそ他の編曲をあたる時間もなく(私は地方在住なので)小型スコアと私自身による独奏版をもとに仕上げたのがあの楽譜です」。
「あの編曲も原曲を損ねないように行ったつもりです。バッハの「アリア」の場合、ご承知のように原曲は、4声部の弦楽合奏でしかありません。レーガーの編曲を知らないのでなんとも言い難いのですが、作曲の勉強をした人があたれば同じ処置をすることも充分ありえると思います。また、音の運びが極めて易しいあの曲を編曲するのに、他人のを真似ようとは思いません」。
確かに、後藤さんがご指摘される通りです。よくよく原曲のスコアを見て冷静になって考えてみれば、音の持続を考慮し、かつ「4本の手を使ってピヤノで弾く」ことを前提に演奏効果が上がるように編曲すれば、似て来るのは当然の帰結であります。通常の「管弦楽からピヤノ連弾への編曲」(この場合、正確には弦楽から)の定石をきちんと踏むとなると、この曲に関して言えば編曲者にとって「表現」あるいは「音」の「選択権」がまことに限られたものとなってしまいます。
こうしたこの曲特有の面を考慮せずに、最初の論評を書いてしまいました。これは明らかに、わたくし(夫・かずみ)の判断ミス以外の何物でもありません。その意味で、当初掲載したコメントは、大変に不適切なものでありました。この場を借りて、後藤さんに謝罪いたします。また、読者の皆様にもご迷惑をかけました。重ねて陳謝いたします。今後は、より慎重にコメントをつけるように致します。後藤さん、読者の皆様、まことに申し訳ありませんでした。(かずみ)
言わずと知れた、この作曲家によるオルガン曲の代表作。
この曲をピヤノで弾けるようにと、編曲に挑戦した方々は、けっこうたくさんいらっしゃるようです。オルガンは多段鍵盤ですし、足鍵盤もついています。それを1段88鍵の曲に直すため、編曲者のみなさん、苦労されていらっしゃいますね。ペダルを効果的に使ったり、指だけでは音が足りなくなるところで、必要最小限の省略をしたり…。もっとも問題になるのは「足」が使えないため、何らかの省略なしに、原曲をそのままピヤノに移し替えられない点でしょう。手の1本分に相当する「足」を勘定に入れると、「敵」は3本の「手」を持っているのと同じ。方やピヤノは2本の手で弾かなくてはいけません。これは厄介ですよ。何もこの曲に限らず、オルガン曲からピヤノ曲に編曲する際には、避けて通れない課題であります。
しかしここで、極めて簡単な解決法があります。そう、奏者の手を増やせばいいのです。そして原曲の音を、上手に配分すればいいのですね。早い話が連弾。
すると独奏へ編曲することと比較して、かなり容易にオルガン曲からピヤノ曲への改変ができます——もっとも音域上の問題が出る可能性もありますが、J.S.バッハの諸作品はまず支障がありません。このCarl
Platoの編曲。まさにその点に着目、オルガン曲をほぼ完全にピヤノの鍵盤上で再現しています。しかも弾いてみると、ピヤノならではの「良さ」が出ているところ、さすがです。アーティクレーションの付け方は、もう完全にピヤノ用です。
それに弾いていて、とても楽しい。特にフーガ。フーガの出だし、第1声はセコンダの右手、そして第2声はプリモの右手…といった具合に、対位法の面ではかなり弾きやすいように考慮してあります。
加えて、個別の奏者は、あのレーガー編曲の「ブランデンブルグ」や「管弦楽組曲」などのように、「自分で自分の手をひっぱたく」といった、無理な書法はありません。「鍵盤楽器から鍵盤楽器への編曲なら、無理がなくて当たり前じゃないか」とのご指摘もあるかも知れません。しかしながら、同じ鍵盤楽器とは言え、多段鍵盤での演奏を前提に作曲した曲を1段鍵盤で弾こうとすると、自分の両手がこんがらかるような、あるいは自分で自分の手をひっぱたいてしまいそうな箇所があちこちに現れます。例えばJ.S.バッハの作品なら、「ゴルトベルク変奏曲」。楽譜の指定通りに弾いたら、あちこちで自分の手がもつれるところが出てきますよ(おやりになったことのない方、是非いちどお試しあれ)。
ただし、誉めてばかりもいられません。ちょっとばかり凝ったがために、アンサンブルが格段に難しくなっているところも。たとえばトッカータの5小節目、最後の拍から10小節目にかけて、プリモ/セコンダともにオクターヴのユニゾンになります。この4オクターヴ・ユニゾン、たしかに響きに広がりは出ますが、これをきっちりきれいに合わせるのは、結構厄介です。片方のパートづつだけだと何ということはないのですが、一緒に合わせるとなると、完全に呼吸を合わせないと音の流れが「バラバラバラッ」と崩れてしまいます。崩れると、実に無様に聞こえます。なまじ有名な曲なので、ちょっとでもずれるとすぐさま露見し、非常に格好が悪いですね。
また、本来なら一人で弾いた方がはるかに楽(音をそろえるという意味で)なところを、あえて両奏者に振り分けているところも多発。例えばトッカータの21小節目〜27小節目など顕著です。この箇所、プリモ/セコンダともに、片手で弾いています。しかも視覚的効果を狙ってか、両奏者ともに、右手と左手を交互に使います。それもあえて左右を切り替えて使う必要のないところなのに。わたしたちだったら弾き易さを考えて、あるところからあるところまでをプリモ、そこから先をセコンダに、と割り振るのですが。どうも編曲者のCarl
Platoという方、「可能な限り、両奏者とも指を動かしている状態にする」ということを念頭に置いて編曲した模様です。
このあたり、もう一工夫あると、ずっと弾きやすく、しかも視覚的効果も上がるのでは…と残念に感じる次第です。