パッヒェルベルの作品
この作曲家の作品中、最もポピュラーな1曲です。ただし「ポピュラー」と言えるのは原曲「Kanon und Gigue fur 3 Violinen mit Generalbass」のうち「Kanon」の部分のみ。KanonだけでなくGigueまで聴いたこと、あるいは演奏したことのある方は、きっとバロック音楽が相当にお好きな方なのでしょう。我々一般人は、「Pachelbel」と言ったら「Kanon」止まりなのが「普通」なのではないでしょうか。何はともあれ、Pachelbelの作品中、Kanonが飛び抜けて有名なのは否定できないところでしょう。
そのKanonの連弾譜。わたくしたちの手元には、後藤丹氏の手による編曲(全音楽譜出版社)と、Denes Agay氏の編曲(Theodore Presser Co.)、2種類の楽譜があります。他にも幾つか連弾用編曲があるようですが、わたくしたちは現物を確認しておりません。ちなみに2台用もR.Simm編曲(BELWIN MILLS)やD.& N.A.Weekley編曲(KJOS WEST)など、複数の編曲が世に出ております。以下で言及するのは後藤版とAgay版に関してです。
この曲を1台のピヤノ用---連弾とは限りません。ソロでも同じことが言えます---に編曲する場合、まず問題となるのがヴァイオリン3声部の扱いです。原曲では3声部が全く同じ音域でカノンを構成します。これをそのままピヤノに移しても無意味です。無意味な理由は少なくとも2つ挙げることができます。1つは鍵盤上の同じ位置で各声部が交錯し、非常に弾きにくい曲になってしまうからです。もう1つは曲として変化に乏しく、単調かつ冗長な、つまらない曲になってしまう可能性が非常に大きいからです。原曲であれば、(1)ヴァイオリンの各声部に対して上手に変化を与えることで、単調性/冗長性を排除できるだけでなく、(2)通奏低音を上手くコントロールすることによって、曲全体に変化を付けることができます。しかし1台のピヤノで(1)も(2)も同時に実現しようとすると、かなりの無理が生じます。
この2つの問題---弾き易さを考慮し単調性/冗長性---を排除するための方法として、各声部を適宜、上方/下方へ移し替える・・・という手段が、まず考えられます。後藤版、Agay版ともに、手法はかなり異なりますが、声部の移し替えを適切に実施することで、演奏効果も上がり、かつ弾きやすい連弾曲に仕上がっていることが、まず指摘できます。
後藤版とAgay版の最も大きな違いは、後藤版が「バス部のオスティナート」を28回繰り返し原曲を完全な形で連弾化しているのに対し、Agay版は原曲の途中をあちこちカットしてオスティナートの繰り返しを18回としている点です。
さらにこれは重要な点なのですが、後藤版が3声のカノンを鍵盤上で完全に「再生」しているのに対し、Agay版は複数箇所で1声部をカットし、3声のカノンを構成していない部分があります。このAgay版の編曲手法には、大いに疑問符が付けられます。
なお、原曲は「4分の4拍子」なのですが、後藤版、Agay版ともに原曲の1小節を2分割しています。ただし、後藤版は「2分の2拍子」と設定することで、極力原曲のリズム感を維持しようとする姿勢が見えます。一方のAgay版の設定は「4分の4拍子」。こうなるとリズム感が原曲と全然変わってきてしまいます。ピヤノで演奏するということを考えると、どちらが良いのか、意見の分かれるところでしょう。あるいは、それほど大げさな問題ではなく、「好み」のレヴェルにとどまるものかも知れません(譜例1)。
譜例1−1:原曲冒頭。通奏低音部。赤い四角で囲んだ部分がバス・オスティナート この楽譜はSchott版 |
譜例1−2:後藤版冒頭。拍取りは一貫して2分の2拍子。 |
譜例1−3:Agay版冒頭。拍取りは一貫して4分の4拍子 |
なお、原曲の1小節を2分割した理由について、後藤さんご本人は、「最大の理由は譜面を読みやすくするため」とご指摘下さいました。「最初のほうはまだいいのですが、途中から原譜だと32分音符が多くなり、とても読みづらくなるのを回避しました。子供にも弾いてもらいたかったので」(後藤さん)。また後藤さんは「1小節を2分割した結果」について「2分の2にすると確かに原曲の拍節感とやや違ってくるかもしれませんが、バロック時代の曲をみると(例えばヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲イ短調など)同じ主題を1拍からはじめたり3拍からはじめたりとあまり神経質でないようにも思われます」とのコメントを下さっております。恐らくAgayさんも、同様の理由で原曲の1小節を2分割なさったのではないかと推測できます。
さて、編曲本体。先に指摘したように、両版とも連弾曲として演奏して無理ない仕様になっている上、きちんと演奏効果が上がるように仕上がっております。ただし、Agay版はプリモ左手とセコンダ右手の接近を極力回避しようとする姿勢が見られるのですが、音域の移行、および各声部を4本の手に分担させる上で、やや不自然な点が見受けられます。これは我々夫婦で意見が分かれたところなのですが、妻・ゆみこは「許容範囲」、夫・かずみは「ちょっと許容できないなぁ・・・」。
一方の後藤版は、可能な限り1本の手が1つのフレーズを連続して演奏できるように工夫してあります。その上で全体のバランスを保つために、慎重にオクターヴの音が加えられるなど、相当に神経を使った編曲です。結果的に、各声部がかなりくっきりと浮かび上がる上に、曲全体に変化を与え、ある種の「華やかさ」も伴った編曲となっております。ただし、両奏者の手が相当に接近する箇所があります。例えば下記のように(譜例2)。
譜例2:後藤版でプリモとセコンダが接近する例。 プリモの右手とセコンダの左手が3度で接近する。両者でポジションを ちょっと工夫すれば、「ぶつかり」は容易に回避できる。初見で合わせる ケースや、連弾の初心者には、ちょっと難しいかも知れないが。 |
これは後藤さんご自身が楽譜の序文で、きちんと指摘していらっしゃいます。誤解のないように付記しておきますが、もちろん後藤版も両奏者の手の接近を極力回避する工夫をしております。しかしながら「連弾」という分野では、この程度の「接近」は日常茶飯事。ちょっとした「打ち合わせ」で、手のぶつかり合いは簡単に回避することができます。とりわけ演奏上の問題になるようなこともないでしょう。
その他、指摘するとすれば終結部の扱いでしょう。Agay版が分散音を軸とした華やかな終わり方であるのに対し、後藤版は原曲の持ち味を活かしながら重厚に終わります(譜例3)。
譜例3−1:Agay版終結部(プリモ) |
譜例3−2:後藤版終結部(プリモ) |
どちらの編曲も立派ですが、夫婦で意見は真っ二つに分かれました。妻・ゆみこは全体をコンパクトにしたAgay版を、どちらかというと「完全主義者」の夫・かずみは後藤版を、それぞれ推しております。編曲手法に関しても、ゆみこはAgay版で問題なし、かずみは後藤版が3歩勝ると、お互い譲りません。もう、こうなると「好み」の領域ですね。
ちなみにわたくしたち、2つの版を2人でプリモとセコンダを交代しながら弾いたのですが、左手の不自由な夫・かずみは、どちらの版でもプリモ左手が動かなくて、綺麗に声部を浮き出させることができず苦労しました。はい、これは編曲上の問題ではなく、単に夫・かずみの左手の問題でありました。すみません、後藤さん、Agayさん。
なお、本稿ではあえて通奏低音部に関する言及を避けました。夫婦ともども通奏低音の扱いに不慣れなことに加え、この声部の扱いは編曲者の「価値観」によって自由に扱われて良いと考えたからであります。ちなみに後藤版の冒頭でプリモ右手にスタカートが付与されているのは、現代の管弦楽で演奏する際に、この声部がピチカートで扱われていることに由来する、とのことでした。