−レッスン夜話−
教わる側の論理
 

 このお話は、幼い頃にせっかくピヤノのレッスンをしておきながら失敗者として挫折し、大人になってからはじめて、ピヤノを弾く悦びを実体験した「敗退学習者」のメモです。ピヤノを教えていらっしゃる先生方の参考になれば、幸いです。そして、「もっともっと、気軽にピヤノを楽しみたい」と考えていらっしゃる方の一助になれば、嬉しい次第です。筆者は、わたしたちデュオの「へたくそ」な方(夫・かずみ)です。

目次
          壱拾

レッスン夜話 その零 −はじめに−

 

 ピヤノを「教える側」からの「レッスン体験」は、世の中に数多くあります。「こうして教えたら上達した」「こんなやりかたは失敗だった」という体験談です。ところが「教わる側」からの体験談は、非常に少ないようです。たまに目についても「こんなレッスンだったから良かった」という、成功者の論理ばかりです。

 ところが、レッスンを止めてしまった者の声がメディアに乗ることはほとんどありません。むしろ皆無と言って良いでしょう。

 しかし良く考えると、成功者よりも失敗者−−必ずしも敗退者とは限りません(これが重要です)−−の方が、はるかに多いのではないでしょうか?

 その一例として、45歳以下・20歳以上という条件で、無作為に100名の人が集まったとしましょう(銀座・ヤマハの地下の楽譜売場などでやったらダメですよ・あくまでも無作為と仮定して下さい)。そこで質問します。

「ピヤノを一度でも習った人、手を上げて下さい」。

 おそらく、どこでも少なくとも3割くらいは、手が上がるでしょう。ところが、続いて

「今でもピヤノを日常的に楽しんで弾いている人、または今でもレッスンを続けている人以外は、手を下ろして下さい」

と質問したら、どれだけの人が、手を上げたままにしていられるでしょうか? 最初の質問で手を上げた人のうち、2番目の質問の後まで手を上げたままにしていられる人。ある推測に過ぎませんが、10人残ったら御の字。5人でまあまあ。場合によっては1人というケースも、十分にあり得るでしょう。

 わたくし(デュオの下手な方)の経験からも「小さい頃は(あるいは中学生くらいまでは)やっていたけど、止めちゃって、あとはご無沙汰」というケースが、非常に多いのです。しかも、そうした人たちの大半は、みんな、音楽が好きであるにもかかわらず。

 つまり、「レッスンにおける失敗者」の方が、成功者と比べると圧倒的に多いのです。ところが、そうした声は、いかなるメディアにも登らない。

 かく言うわたくし(以下、このページの制作者で下手な方)も、運が悪ければ、2番目の質問で手を下ろす側に回っていました。いえ、むしろ偶然の産物が重なって幸運にも2番目の質問で手を下ろさずに済んだ、というべきでしょう。

 さて、わたくしは、何故レッスンをやめたのでしょうか? そして、何故いま、ピヤノを楽しむことができるのでしょうか? その経緯を記述することで、大人になってもピヤノが楽しめる−そんな環境を、教える側、教わる側の双方から参考にして頂きたいのです。


其の壱 —— 駄目なレッスンは、百害あって一利なし

 

 わたくしは、3歳のときにピヤノのレッスンを始めました。というより、そのように記憶しています。ただしその年齢の頃、左手小指を切断し、以降左手の自由を奪われる、という事件に遭遇しているので、ひょっとしたら4歳頃だったかも知れません。いずれにせよ、わたくしは6〜7年、ピヤノのレッスンを受けていました。

 いずれにしても、わたくしはピヤノが大好きでした。しかし、ある日レッスンを止め、そして大人になって再びレッスンを開始し、現在に至っています。「何故レッスンを止めたか」。これは非常に大きな問題をはらんでいます。それをお話しする前に、大人になってわたくしがレッスンを再開したときのことを、ちょっと振り返ってみましょう。

 

 企業に勤務し、平日はおろか土日もまともに休めない、そして十分な自宅練習もできない、という悪条件の生徒を引き受けて下さったのは、このサイトを一緒に運営している妻・ゆみこです。もっとも、その頃はお互い結婚するとは思いませんでしたが。

 

 さて、最初のレッスンの日。先生はわたしに、まずハノンを弾かせました。1番からです。そこから何時間かは、それはすさまじいものがありました。

 手短に書くと、ピヤノ本体と体の距離、椅子の高さ、姿勢、視線、腕の角度、指の角度と開き方。さらに手のかたちと鍵盤に対する指の落とし方…すべてを徹底的に指摘され、徹底的に直されました。姿勢を直すために、思い切り後ろから叩かれたこともあります。指がしっかりと安定して鍵盤に接しているかを見るために、弾いている手へ、いきなり空手チョップが降ってきたこともありました。それは、最初のレッスンから3年たった現在に至っても、繰り返し、繰り返し続いています。わたくしのピヤノの弾き方は、新しい先生によって完全にゼロからやりなおしをすることになったのです

 

 かなり壮絶なレッスンでした。しかし、こうしたレッスンを受けた後のわたくしは、自分でも不思議なほど、それまで以上にピヤノを楽しく弾けるようになったのです。まず、第一に、自分一人で練習していても疲れる、ということがなくなりました。それまでは、ちょっと根を詰めて練習すると、すぐに腕と指が疲れて自由が利かなくなりました。何度も手を壊して医者通い。ピヤノばかりか、好きな乗馬まで禁じられてしまいました。ピヤノの練習に力を入れると、日常生活まで支障をきたす、という状況に陥っていました。せっかく音楽、そして生活を楽しもうとしているのにです。

 ところが新しい先生にレッスンを受けることによって、以前よりもずっと指が楽に動くようにもなり、不得意だった初見も、多少なりとも利くようにもなりました。そうしたことが、ピヤノに向かう楽しさを、それまでの何倍にも増幅する結果となったのです。

 

 しかしです。ちょっと考えてみましょう。

 わたくしは幼稚園から小学生とは言え、6〜7年間もレッスンを受けていた訳です。そこに投資した時間と資金は、相当なものに登っていたことは疑いようもありません。しかし、それらのレッスンは、結果的にすべて無駄になったのです。少なくとも実際にレッスンを受けた本人としては、過去のレッスンは完全に無駄だったと評価しています。振り返って見ると、最低のレッスンでした。

 何と言っても、何から何まで、ピヤノを弾くことに関しては、すべてやり直しになったのですから。そして、すべてをやり直すことによって、実に楽しく、そして楽にピヤノを弾くことができるようになったのですから。そうすることによって、音楽そのものが、より楽しめることになったのは言うまでもありません。

 もちろん先生によって、さまざまな教え方があることは、わたくしも理解しています。しかし、最初に受けたレッスンがまともだったら、すべてをやり直す必要はなかったでしょう。そして、何から何までやり直さなくとも、現在の水準まで到達していた筈です。思い返しても、過去のレッスンで現在のために残った、というものは、なにひとつありません。要するに過去の時間と資金の投資は、全部が無駄になった訳です。

 

 わたくしの場合は、本当に幸せでした。親身になって教えて下さる先生に巡り会って。練習中も力の配分を直すために、思い切り手をひっぱたかれたこともありました。弾き方をボロクソに言われたこともありました。わたくしもレッスン中に反発し、大喧嘩になったことも。でも、結果的にはすべてが良い方向に向かいました。

 

 ただし。誰もがこうした幸運に巡り会えるとは限りません。周りでもさまざまレッスンに関する話は聞きますが、こうした「レッスンとの幸せな再会」についての話題は、なかなか出ません。

 

 そこで教訓。「最初が肝心」。そしてさらに「駄目なレッスンは、百害あって一利なし」



其の弐 —— 音楽の敵・ピヤノを止めるきっかけは ぱぐ

 では、なぜ最初が肝心か

 結論から言ってしまえば、基礎がきちんとできていなければ、演奏家や教員、ピヤノ講師になることが困難——ニセモノでいい加減な演奏や、いい加減な教育をするなら別ですが——であるばかりでなく、趣味としてピヤノ演奏を楽しむ可能性まで潰してしまう恐れが極めて大きいということです。そして、ある程度の年齢になって、もう一度ピヤノをやってみたい、と思ったときに、多大な負担を強いられてしまうことになるのです。

 誤解のないように、ちょっと注釈を加えますと、「子供の頃ピヤノに触れる機会がなく、大人になってから、ちょっと好きな曲を弾いてみたい」、といった例はまったく別です。わたくしが、ここで言わんとしているテーマからは、完全にずれてしまいます。それならそれで、基礎だの何だのにとらわれない、楽しいレッスンがある筈だからです。もっとも、その「ちょっと好きな曲」が、プロコフィエフやスクリアビンのソナタ、メシアンの「鳥のカタログ」、ブーレーズのソナタとなれば、これまた話はまったく別の方向に行くのですが。

 さて、わたくしがここで話題の俎上に上げるのは、大ざっぱに言って小学生あるいはそれ以下、若干サバを読んで高校生以下で、初めてピヤノのレッスンを受ける、と言ったケースです。 別の言い方をすれば、「習ったこと」を無批判で、そのまま受け入れてしまう、そして自我が完全に目覚めていない練習者の場合です。

 わたくしは、「最初に教わった」通りの奏法で、この30年以上もピヤノに向かって来ました。幾人か先生は変わりましたが、誰も最初に教わった奏法を続けるわたくし——といってもきちんと習っていたのは、小学生までの間でしたが——に「訂正をかける」ということをしませんでした。そして、最初に教わったことを忠実に守りながら、ずっとピヤノを弾いてきました。そんなわたくしを、妻・ゆみこは生徒として迎えたのです。

 結婚してから妻・ゆみこが、わたくしに話したところによると「何と酷い奏法をする人だろう。全然基礎ができていないし、これではレッスンにならない」というのが第一印象だったそうです。妻・ゆみこによれば、いちばん最初に教わらなければならない、指と鍵盤の接し方(鍵盤への指の「落とし方」)が、まったくできていない。それを支える手のかたちも、当然ながらまったくできていなかった、とのことでした。


 曰く、その指の落とし方だと、余計な力が入ってしまう。肩から力を入れなければ芯のある音が出ない。指の独立性が損なわれてしまう。ある程度以上に細かい動きができなくなる…(その他、たくさん)。結果的に、いくら練習を重ねても、非常に低いレベルで限界が来る。そして、練習を重ねれば重ねるほど、手を壊す! こうした話は結婚後に聞いたことですが、妻・ゆみこは、それを口に出さず、わたくしの奏法の改善に手を出したのでした。わたくしを不用意に傷つけないようにして。

 言われてみれば、わたくし自身、思い当たることばかりです。ハノンをいくら弾いても動きはあるところで限界に達する。そして練習すればするほど肩から先を壊して、担当医師から「ピヤノをお休みしないと、仕事ができなくなっても責任は持ちませんよ」と宣告されて。これでは、もっともっとピヤノを楽しみたい、と思っても先が続きません。

 ところが、妻・ゆみこの献身的な努力で少しづつ奏法をなおしたところ、かなり練習しても以前のように手を壊すことがなくなりました。そして、わずかずつですが、指の動きも良くなってきました。もちろん、以前にも増して、ピヤノに向かうことが格段に楽しみとなったことは、言うまでもありません。もっとも妻・ゆみこにしてみれば、基礎の基礎を直しただけ、と言うのですが。

 しかし、逆に見れば、基礎の基礎をちょっと直しただけで、ピヤノを弾く楽しみが、何倍にも大きくなったのです。妻曰く「最初からきちんとしたレッスンを受けていれば、こんなに苦労することもなかったのに」。 ここまで書いてお気づきになった方も、いらっしゃるでしょう。最初のレッスンさえきちんとしたものを受けていれば、わたくしは後々まで苦労することはなかった、そして、もっともっとピヤノに親しみ楽しむことができた、ということを。

 つまるところ、わたくしは、最初に「どうしようもないレッスン」についたばかりに、後年になって改めてピヤノを楽しもうとしたとき、以前習っていたにもかかわらず、教わる側にも、教える側にも、凄まじい負荷を要する羽目になってしまったのです。これは、音楽、特にピヤノが大好きなわたくしにとって、非常に大きな「無駄」でした。「どうしようもないレッスン」を幼い頃に受けたことが、悔やまれてなりません。その「どうしようもないレッスン」が、わたくしが音楽(ピヤノ)を楽しむという機会を、ある意味で奪ったと言えるからです。そして、そのレッスンこそが、わたくしにとって、ピヤノを止めるきっかけを作ったのです。

 真に「駄目なレッスンこそは、音楽の敵」と言えましょう。



其の参 —— 伸びなければ、止めたくもなる
 
 では、何故レッスンを止めたのか。

 本題に入る前に、この問題を書くきっかけに触れておきます。97年の9月頃、わたくしは友人のピヤニスト・豊岡正幸さんの取材を受けました。取材テーマは、ズバリ「なぜ、レッスンを止めたのか?」。豊岡さんは、ムジカノーヴァから「生徒を長続きさせるレッスン法」と言うテーマでの寄稿を求められ、その原稿執筆の一環として、わたくしに意見を求めていらっしゃいました。わたくし以外にもインタビューを重ね、「ムジカノーヴァ 97年10月号」に、「求められるレスナーの見識と自覚」という、素晴らしいレポートを寄稿いたしました。レスナーの方、ご参照頂ければ幸いです。

 そのとき、わたくしは自分なりに意見をまとめたつもりですが、言い足りなかった面もあり、いちどきちんとまとめて置こうと考えたのです。

 そして、もう1つ。この「楽しいれんだんの部屋」と相互リンクをして下さっている、NHK交響楽団のヴァイオリン奏者・根津昭義先生と夫人のピアノ教師・根津栄子先生がご自身のホームページの中で、

  大切なことは正しい指導を受けるということです。『初歩だしどうせ趣味だから近くの
  先生でもいい』というのでは、あとで全部やり直しになり大変な時間とお金の浪費です。
  初めに良い指導を受け、しっかりした基礎を身につけた人は大変幸せで、後から基礎を
  やり直すというのは、方程式を解くころになって、足し算の勉強をやり直すのと同じよ
  うなものです。
根津先生のホームページより

と主張されていらっしゃいます。このご意見に共感し、わたしなりの考えを纏めてメール交換したところ、「なぜ、正しい指導が必要なのか、本当のところをなかなかきちんと理解してもらえない」と嘆かれていらっしゃいました。
 そこで、「最初から正しい指導を受けなかった結果」が、どのようになったのかを、自分自身をサンプルとして記述してみたくなったのです。

 では、本題に戻りましょう。 なぜレッスンを止めたのか?

ひとことで言えば「レッスン(練習)がつまらなくなった」に尽きます。と同時に、ピヤノを習う悦びが消えたことも大きな要因です。

 それでは、なぜレッスンがつまらなくなり、習う悦びも消えたのか。
原因は3つ。1つは、「きちんとしたレッスン(正しい指導)」を受けなかったばかりに、基礎が固まらない上に練習効率が極めて悪く、練習を重ねても上達の具合が非常に遅かった、ということ。つまり「技術面」での問題です。

 もう1つは、「なぜ、その練習曲を弾く必然性があるのか」「なぜ、ある一定の指(手)のかたちを保たなければならないのか」等々、レッスンを進めて行く上での説明が何も行われなかったこと。そして3つ目は、教材の選び方が極めて安易で単調だったことが挙げられます。もちろん後の2項目も「きちんとしたレッスン」に含まれることは言うまでもありません。この3つの要因がうまく(?)重なり合った結果、練習はつまらなくなり、習う悦びも消えたのです。ピヤノを本当に好きだった(今でも好きです)というのに。

 「技術面」。これは極めて重要です。先に述べた通り、技術の点でしっかりしたレッスンを受けなかったばかりに、結果的にレッスンへの興味が失せたのです。それは、そうでしょう。やっても、やっても伸びなければ、子供心にもレッスンが、そして練習が楽しく感じる訳はありません。もちろん、練習がいつも楽しいものだとは申しません。しかし興味を失ったらおしまいです。残念ながら、わたくしにとって、子供のときのレッスンは、悪い結果になってしまいました。

 しかもわたくしは後年、「正しいレッスン」を受け、技術面での矯正を受けて、ピヤノを弾く楽しみを取り戻したのです。そうなると、最初の指導が悪かったとしか、言いようがありません。ただし、レッスン再開にあたっては、教える側に膨大な負担をかけてしまいましたが。これだけを見ても、最初のレッスンがいかに重要かがお分かりになるでしょう。いま考えれば、最初にきちんとしたレッスンを受けていれば、少なくともピヤノ・レッスンに対する興味は失わなかったと言えます。そしてレッスンを止めることもなかった、と。仮に何らかの事情でレッスンを中断したとしても、もっともっと、ピヤノ演奏そのものを楽しむことができたことは否定できません。




其の四 —— レッスンでは合理的な説明をぱぐ

では、きちんとしたレッスンとは何か。

 最初にお断りしますが、以下はすべて筆者である生徒・かずみの私見・独断です。師・ゆみこ、わたくしたちのアドバイザ、相互リンクを許可して下さっている皆さんなど、他の方の意見・レッスンへの捉え方とは全く無関係ですのでご注意下さい。また、技術面でのレッスンに関してのみ言及しています。そのことを前提としてお読み下さい。

 ピヤノを教わる側にとって「きちんとしたレッスン」とは、合理的なピヤノ奏法を教えてくれるレッスンです。合理的と言っても「最大公約数的なレッスン」を意味するものではありません。先生自身の独断と意図があってもかまわないのです。「そのレッスンを続けることで、最終的にはどんな曲を弾くに当たっても通用する技術」であれば何の問題もありません。ここで言う「技術」とは、ピヤノ本体と体の距離、椅子の高さ、姿勢、視線、腕の角度、指の角度と開き方。さらに手のかたちと鍵盤に対する指の落とし方と言った、ピヤノを弾く上での、ごく基本となることです。加えて、個別の音の作り方、そしてフレーズの作り方が挙げられます。そして運指。こうした基礎的な事項を習い初めの時から、徹底して教えることが必要です。すくなくともわたくしは、そうしたレッスンをしてほしかった。

 もちろんこれには異論があることも十分に承知しています。「段階を追って、少しづつ教えればいい」あるいは「ある程度弾けるようになってからでも十分」など。前者はともかく、後者の教え方は教わる側としては賛成できません。「では、いつ教えるの?」。変な癖がついてしまってから直そうとしても遅いのではないでしょうか?

 さて、問題は教わる側として(あるいはその保護者として)「どうやってきちんとしたレッスンであるか」を見極めるか、です。これは非常に難しいのですが、いくつか着眼点があるように推測できます。

 まずは、先に挙げた技術的ポイントについて常にアドバイスをしているか。これはレッスンを受けていれば、あるいはレッスンを横で聴いていれば判断できること。さらに受講者に対する講師のアドバイスが適切で合理的であるかどうかを判断する必要があります。そのポイントは至って簡単。レッスンの終了後に「なぜ、そうしたアドバイスをしたのか」と質問すれば良いだけです。きちんとした講師であれば、その質問に対して合理的な説明ができる筈です。ピヤノの構造も含めた工学的な面、人間の体の構造を踏まえた力学的な面、鍵盤上に置かれた手のトポロジの意味するところ、フレーズを作る上での音楽的な「決まり事」…その他、教えたことに対する明確な説明が出来るはずです。できなければ、その講師は何の意味も根拠もなく、ただ「形」だけ教えていることになります。フレーズの作り方など音楽的な面を除き、「こうするように決まっているの」と論理的な説明もせず頭から押さえつけるような返答をする講師は、自分自身が何も理解せず教えていることを自分で証明 してしまっているようなものです。

 さらに言うならば、受講者の身体的特性に着目したレッスンをしてもらえれば、受ける側としてもレッスンは楽しくなります。からだの大きい人、小さい人、手の大きい人、小さい人。手は大きくてもどこかの指が短い人。それぞれ技術的アドバイスのポイントはみんな異なるはずです。たとえばわたくしなど、親指と中指が両手ともにやや短く、左手の小指は事故で切断・縫合しているため右手の小指に比べてかなり短く動きも悪い。こうした生徒に「最大公約数的」な教え方をしてもダメです。レッスン中にそうした身体的条件を見極め、生徒にとってもっとも合理的で弾きやすくできるようなアドバイスが必須です。

 子供だから、初心者だから、といって軽く見て、技術面での合理的な説明もできないようなレッスンをしてしまっては、生徒のためになりません。

 もちろんこれらは技術的な面のみで、解釈(音楽的側面)におけるアドバイスは全く別物。解釈について、論理的かつ合理的な説明をしろと迫ったところで無理な話です。教わる側も教える側も「技術的側面」と「解釈」はきちんと切り分けてレッスンに当たるべきでしょう。もちろん完全に切り分けられない面があることは筆者も十分に承知しています。しかしながら、可能な限り合理的な説明ができるレッスンにするべきではないでしょうか。

レッスンの半分は「対話」であれば、相当に幸せです。そうした「丁寧な対話」がなかったことも、わたくしにとってレッスンがつまらなくなり結果的に止めてしまった原因なのです。少なくとも、「その日のレッスン」について丁寧な説明さえあれば、レッスンも長続きしたことでしょう。




其の五 —— 誤解されては困るので

さて、ここまで書いたところで、師・ゆみこから、質問と異議申し立てがありました。ポイントは以下の2点。

●いつでも「合理的な受け応えができるレッスン」が必要なのか

●音楽大学など音楽関連学校を出たからと言って、レッスンの仕方を習っているわけではない。
 あくまで学校では「演奏」を学習しているはずだ。そのため、音楽関連学校を出たからといって、先に述べたようなレッスンができるとは限らない

筆者の考え方・立場をかなり良く理解している身内からこうした意見が出る、と言うことは、一般の読者側にも同様の疑問等を抱かせる可能性が非常に高いわけです。このため、若干の補足説明をすることにしました。

まず、最初に強調しなければならないのは、筆者が論じているのは「初心者」、特に「これからピヤノを始めよう」という人たち、それも子供向けのレッスンにおける技術面での指導に限定して話を進めております。もう少し範囲を広げると、まったくの初心者ではないとしても、技術レベルで言えばツエルニー40番/ソナチネ・アルバム修了程度(こうした画一的テクストによるレベル表現は個人的に嫌いなのですが、他に一般的な指標がないのでやむをえません)の学習者向け、あるいは子供でなくとも徹底的にピヤノの基礎を習おうとする学習者向けのレッスンに関してです。

 音楽大学や専門学校にピヤノで入学できるレヴェル、あるいは「好きな曲を、ちょっと楽しんで弾けるようになりたい」という人向けのレッスンに関しては、まったく言及していません。そうした人たちに対するレッスンは「合理的な受け応えができる」という「レッスン仕様」に沿う必要性は必ずしもないわけです。レッスンの目的が違うわけですから。わたくしが論じている点とは、まったく別の観点でレッスンに関して言及するべきものです。

少なくとも、筆者が論じている範囲の学習者に対しては「合理的な受け応えができるレッスン」が必要でしょう。ただし、のべつまくなしに「弾き方の能書き」をしゃべりまくる、という意味ではありません。自然にアドバイスをして、「なぜ?」と問われたときには、いつても必要十分な合理的説明ができれば良いわけです

さて、もう1つ。
 筆者はピヤノ講師が音楽大学を出ているからレッスンができる、とは考えていません。演奏法と教育法は、別物ですから。ただ、人(先に定義した「初心者など」)に教えるからには合理的説明のできない教え方だけはするべきではない、と考えています。逆に言えば、合理的説明のできない人に、教える資格などあるでしょうか? 少なくとも他人に教えようとするならば、レッスン法を学習ないしは研究すべきです。もちろん、何度も言うようですが、基礎技術に限定しての話です(これを強調しないと、誤解する人がたくさん出ますね)。

 加えて、学校でも、ご自身でも、レッスンのやり方を熱心に勉強・探求されていらっしゃる方はたくさんいらっしゃいます。ご自身で教材を開発したりもして。そうした方々のことを論じているのではないのです。たとえば、わたくしたちのページと相互リンクして下さっている先生方のような方々だったら、わたしだって教わりたい。ご自身のポリシーをもっていらっしゃる先生は、とても魅力的です。ちなみに師・ゆみこは、自分が演奏者としての専門的なレッスンを受けるだけでなく、ピヤノ教育のためのセミナーを受けたりするなど教育法について勉強・探求をしていました。

 筆者はそうした魅力的な先生方に習うことができませんでした。過去、筆者が「ダメ講師」に教わった経験をベースに「嬉しいレッスン、ためになるレッスン、長く続けられるレッスン」について書いているだけです

これがピヤノ(音楽)でなかったらどうでしょう? 例えば算数で「足し算」を教えるのに四則演算の概念がきちんと説明できない人に教わりたいと(あるいは自分の子供を習わせたいと)思いますか? 国語で文法を習おうとして、構文解析のできない人に習おうと(あるいは自分の子供を習わせたいと)思いますか? また、概念を理解していたり構文解析ができていたとしても、それを相手(すなわち学習者)に理解できる言葉で説明できないような人に「その分野の基礎」を教わりたいですか?

 新聞や雑誌の記事だったらどうでしょう。企業情報の分析記事を書いたアナリストが、バランス・シートすら読めなかったら、その記事は信用できますか? 刑法の条文すら読んだことのない記者が書いた刑事事件の記事、誰がまともに評価できるでしょうか? パソコンの基礎構造を知らない記者の書いた評価記事、信頼して読めますか?

 いずれのケースでも「お断り」と答える方が大半でしょう。いずれも説明を聞いて、あるいは記事を読んで納得しているうちはいい。しかし「何故?」と質問したときに、その分野で「相手に説明できるだけの基礎と理解、相手に対する合理的説明ができる力」がなければ、まず信用できません。また「わたしの子供には、あなたの授業は受けさせたくありません」となること必至です。

 なのに、ピヤノなら許されるのですか? それも「ごくごく技術的基礎」の場合であっても。数学だって文筆だって、新聞や専門記事の執筆だって、最終的に求められるのは本人の感性です。感性を磨かないことには、どんな仕事だってできません。でもその根底にあるのは「基礎技術」です。

 また、名演奏家が必ずしも名教師ではありません。その逆も言えるし、名演奏家で名教師という例もあるでしょう。(演奏もダメ、教えるのもダメ、では最低ですが、十分にあり得ります)。

 せっかく教わるなら、ご自身でもしっかりした基礎技術、および教える本人が、なぜ”それ”を教えるのかという明確な思考を持ち、レッスンのやり方を熱心に勉強・探求されていらっしゃる先生に教わった方が幸せだ。そんな思いを込めて書いている次第です。



其の六 —— 楽しいレッスン(I)

 さて、これまでのところで、「きちんとしたレッスン」とは何か、を述べてきました。いずれも過去、特に幼少の頃のわたくしに「欠けていた」レッスンのありかたです。そこで、今回はもう一歩踏み込んで「どうしたら長続きするレッスンとなるか」を、レッスンを受ける側から簡潔に提言することにします。そう、せっかくの良いレッスンでも、長続きしなければ、何もなりませんから。もちろん、長続きをするには「親(あるいはそれと同等の立場の人)」の存在と積極的にレッスンに子供を“参加”させるための姿勢が不可欠であることは言うまでもありません。それは後に述べるとして、ここではレッスンそのものの内容に関して指摘することにいたします。もちろん、わたくし(デュオの下手くそな方)の独断によるものなので、参考までに。

 では、どうすれば、長続きするレッスンとなるのか。ずばり「楽しいレッスン」です。本質的にピヤノ(音楽)が好きでないケースを除けば「楽しいレッスン」についてこない子供はいないでしょう。

 ただし、この「楽しい」が問題です。誤解を避けるために明示しておくと、「楽しいレッスン」とは「子供に迎合する」という意味ではありません。あくまでもピヤノ教育を通じて、子供を「ピヤノ(音楽)」に引きつけることです。ですから日々のレッスン、あるいは家庭での練習が、いつもいつも楽しいものである必要はありません。どんな教材を与えても「ああ、嬉しい。ああ、楽しい」という生徒ばかりだったら、誰も悩んだりしませんね。教える側も教わる側も。

 ハノンを弾いて悦ぶ、さらにそれを通り越してハノンを弾かないと落ち着かないという依存症的な方もいらっしゃるようですが、こうしたケースは例外です。要は「はっきりいって、楽しいことばかりでない」レッスンを、ピヤノ教育の中で、いかに「興味を引く、楽しいもの」と位置づけられるか、です。「いかに、やる気を起こさせるか」と、言い換えることができるかも知れません。

 ピヤノに対する興味を子供に持たせる手段として、大きく分けて2つの方法が考えられます。もちろん、その併用が必要となりますが。

 ひとつは、講師自身が生徒の前で「模範演奏」をすることです。狙いは「先生の言うことをよく聞いて練習すれば、ほら、こんなに難しい曲でも、ちゃんと弾けるようになるんですよ」ということを、生徒に示すことです。「目の前で見せる」ことが重要です。アルゲリッチさんがプロコフィエフか何かを弾くビデオを子供に見せて「ほら、このお姉さん、こんなに上手に弾けるでしょう?」とやってもダメです。先生自身が生徒の目の前で徹底的に弾いて、自分についてくれば、これだけ弾けるようになる、と身をもって体験させることです。

 別の言い方をすれば、生徒に信頼感を呼び覚ますのです。「ああ、この先生の言うことを聞けば、こんなに弾けるようになるんだな」と。信頼できない人について行こうと、誰も思わないでしょう?わたくしも現在、企業で管理職にあり若手にあれこれ言う立場ですが、やはり、教える側(管理する側)で実践(実例)を踏まえてアドヴァイスしないと、部下たちは決して納得し、信頼してアドヴァイスを受け入れてくれません。レッスンでも同じこと。まして子供たちは「動物的な感」で教える側を捉えます。生徒の目に前で難曲を弾いて「さあ、ついていらっしゃい!」と言わないと、説得力はありません。

 まずは、生徒の目の前で弾くこと。それも生徒が「かなり」練習しなければ弾けないような曲−−ラフマニノフやスクリアビン、プロコフィエフのソナタでもよし、ラヴェルの夜のギャスパールでもよし、あるいは「それいけアンパンマン」のテーマを使って3声のフーガと変奏曲をご自分で即興されてもよいでしょう−−を目の前で弾いて、そして「自分の言うことを聞いて練習すれば、これだけできるようになる」ということを「からだ」で示すこと。もちろん、毎回のレッスンで、それをやる必要はありません。一番最初のレッスンを始める前、それと「生徒の興味が失われかけたかな」と思われるなど「要所要所」で良いのです。それが必要ない生徒も多いでしょう。けれど、わたくし自身の経験から言うと、もっともっと目の前で「模範演奏」してくれたら、ピヤノを習う興味が長続きしたことでしょう。目の前でプロコフィエフの7番のソナタなど弾いて「ほら、わたしくらい練習したら、これだけ弾けるんだよ」と言ったなら、「なぜ、このレッスンをしなければならないのか」を実感し、「もっと練習しよう」という積極的な気持ちになったことでし ょう。

 そこでひとこと。「レッスンを長続きさせたければ、まず、自分が弾け」

 もうひとつは「教材選択」。これについては、後日詳述することに致しましょう。次回も「楽しいレッスン」についてコメントします。



其の七 —— 楽しいレッスン(II)

 「生徒の目の前でピヤノを弾く」ことの効用が、もうひとつあります。以前「其の四−−レッスンでは合理的な説明を」の項で述べたように、さまざまな技術を教える上で、生徒に対して「何故、そのような指導をするのか」を、合理的に説明し理解させるようにしなければ、期待したようなレッスン効果を上げることはできません。そうした説明をする際に、先生自身が「指導の結果」を実演してみたら如何でしょう?

 特定のテクニックを教えたら、それを使って実演するのです。それも生徒がその時点で習っている練習曲に加えて、かなりレベルの高い曲を。そしてハイレベルの曲を弾く際に「今、教えたテクニック」が如何に役立つかを示すのです。そのとき「良い弾き方」と「悪い弾き方」を生徒の目の前で示すことで、レッスンの有効性を実証する。「ほら、最初にあなたがやってたような指使いだと、フレーズがガタガタになってしまうでしょう?」「手の形が崩れると、こんなふうに音の粒がバラバラになってしまうよ」−−−といった具合に。

 もっとも、ひとつ何かを教えるごとに、実演ばかりをやっている訳には行きません。例えば、生徒が「先生、どうして、先生の言うとおりしなければならないの?」と疑問を投げかけてきたとき、あるいは生徒が「レッスンに飽きちゃったな」「何か今日は調子が出ないな」という表情(雰囲気)を見せたとき。そんなときにちょっと「実演」してみるのは如何でしょう? レッスンの気分転換も兼ねて、先生が模範を示してみたら。もし、自分が幼い頃、そうした進め方のレッスンを受けていたら、きっと楽しかっただろうな、と愚考するこの頃です。そして「何故レッスンを受けるのか」ということを、もっともっと実感できたに違いありません。



其の八 —— 教材選び

 レッスンを「つまらなくする」要素として、もうひとつ挙げられるのは「教材」でしょう。大昔に受けた自分のレッスンを振り返ってみると、何とつまらなかったことか。延々「バイエル教本」やら「ツエルニー・アルバム」やらを弾かされて。しかも、何の説明もなく、ただ弾かされて。これはレッスンを受ける側にとっては、苦痛以外の何物でもありません。ただただ、これらばかりを弾かされて、副教材は何もありませんでした。

 現在、ピヤノを初歩から徹底的に習おうとする学習者に対して与える教材は何でしょう? 恐らく8割強が「バイエル教本」ではないでしょうか。

 そこで疑問。何故バイエルなのでしょうか? その「必然性」はありますか?

 恐らくこの疑問に対しては、こんな反論が出るでしょう。「基礎から、ある程度の読譜力と運指力が、徐々に身に付くように設計されており、長い間使用されている教本だから」。

 では、そんな反論に対して逆に聞き返します。「バルトークのミクロコスモスも、そのような設計になっていますよね。しかも、半音階進行や対位法、不協和音の処理などに着目すると、バイエル教本より、はるかに優れていますね。なのに、何故、利用しないのですか?」。バルトークのミクロコスモスを持ち出さなくても、メソドローズやカバレフスキの教本などもありますね。

 この「逆反論」に対して、まともに再反論できる“ピヤノ講師”が何人いらっしゃるでしょうか。論理的に、これら他の教材の弱点を完全に批判した上で、バイエル教本の優位性とレッスンで使用しなければならないという必然性を説明できれば良いのです。そこで完全に再反論できた上でバイエル教本を使う講師の方なら、わたくしも信頼できましょう。

 ところが実態はどうか。恐らく、それができる講師は1000人にひとり、あるいはそれ以下でしょう。大方は「みんなが使っているから」という理由だけで、バイエル教本を学習者に与えているだけとしか考えられません。要は、自分なりの教材研究を怠っているわけです。講師側が真剣になって教材研究をしていなければ、習う側もつまらなくなってしまって当たり前。こんな安易な“講師”に付いたらば、学習者側は不幸なだけです。レッスンのための時間とお金の無駄遣いに他なりません。わたくしが大昔に習った、自称講師たちは、こうした怠慢講師でした。

 もっとも幼い学習者に、そんなことは見抜けません。そこは保護者の役割です。保護者が徹底的に講師とやり合うべきでしょう。また学習者が中学生以上なら、学習者本人が「何故、そのレッスンが必要なのか」と、講師に問いかけるだけの気概が必要でしょう。保護者、あるいは中学生以上の学習者の疑問に答えられない講師は、失格です。教える資格などありません。即座にピヤノ講師など辞めましょう。

 それから問題なのは副教材。技術のレッスンばかりやっていても表現力は身に付かないし、学習者側も飽きてしまいます。そこで、副教材を与えるわけですが、わたくし自身の経験、そして様々見聞するところによると、与える教材は、せいぜい前期ロマン派止まり。例えばシェーンベルクやウエーベルンを与えた例は聞きません。良心的な講師の中では、バスティン・メソッドを与えたり、カバレフスキーやハチャトリアンといった近代・現代の作品を副教材として持ち出す例があるようですが、そうした講師はごくごく少数派。バロックから現代まで数多くの作品があるのに、学習者に与えるのは限られたごく一部。これは酷いですね。講師の怠慢以外、何物でもありません。

 どうも世の中には「メシアンの楽譜など見たこともない」というピヤノ講師がいるらしいのですが、これは問題。人にピヤノを教えるならば、音楽史全般をカヴァーしておいて当たり前。その中から学習者にとって必要な教材を適宜選択できなければ、教える側として完全に失格です。数学や物理、地球科学などの分野では、古典から現代まで科学史と理論史を頭に入れて教えるのが当たり前でしょう? 国語だって英文だって同じ。古典から現代まで、ひととおり頭に入れて教えるでしょう?

 ピヤノだって同じ。古典から現代まで多くの作品の中から適宜に主教材と副教材を選択できて当たり前。無論、古今東西の曲をすべて網羅するのは不可能です。でもバロック以前から現代に至るまでの、要所要所となる曲は把握して、レッスンに臨むべきではないでしょうか。学習者の進度に合わせ、そして学習者の興味を引き付けるような教材を講師自身が選ぶことが必要です。これができないピヤノ講師は、即座に辞めて引退しましょう。

 わたくしが過去に受けたレッスンが、こうした講師の努力の元にあったなら、決して途中でレッスンを放棄することはなかったでありましょう。

 「教えること」に関して、自分自身の「学習」を怠っている、自称“ピヤノ講師”が多すぎるのではないでしょうか。



其の九 —— もっとアンサンブルを!

 さて、「レッスン夜話:その八」までで、「なぜレッスンがつまらなくなり、習う悦びも消えたのか」に関して、その原因と対策について述べてきました。わたくしをピヤノから遠ざけるようなレッスンをした「ダメ講師」およびそれに類するピヤノ講師たちへの「苦情申し立て」と「糾弾」は、ほぼ言い尽くしました。建設的な言い方をすると、「理想的なレッスンのひとつのあり方」を述べ、あるいは「決して生徒に迎合することなく生徒の興味を引き付けるレッスンの提案」をしてきました。ここから先は「欲を言えば、こんなレッスンがあったらいい」の部類です。しかしあるピヤニスト(複数)と話をしたところ、「単なる“欲”で片づけられない重要な課題である」との指摘を受けました。

 「ピヤノのレッスンに、アンサンブルを、もっともっと取り入れてほしい」。

 わたくし自身の経験から言えば、もっともっと早くからアンサンブルの楽しみを知っていれば、もっともっと早くから楽しんでピヤノを弾くことができました。そしてレッスンも長続きしたことでしょう。

 何故レッスンが長続きする可能性があったか、ですって? もし、誰かと一緒にひとつの曲を仕上げる、というレッスンを受けていたら、ひとりでは何もできないけれど、誰かと一緒だったら素敵な曲が演奏できる、あるいは表現の幅が広がるという、“妙な自信”がついた筈です。現実に現在のわたくしは、伴侶とともにアンサンブルをすることで、自分一人ではとても表現し得ないような音楽に挑戦できております。そこで得た喜びと楽しみが、レッスンを継続させる原動力になっております。

 またアンサンブルの相手のことを考えると、責任上(?)個人練習を怠ることができなくなってきます−−もっともアンサンブルの対象とする人と相性がよくなければならない、また生徒にとってアンサンブルの楽しみを直裁的に教えてくれるような相手(講師)でなければならない、という条件はありますが−−。

 ここまで「アンサンブル」という言葉を使ってきました。ピヤノのレッスンにおいての「アンサンブル」は、相手がどんな“パート”であっても良いわけです。弦楽器でも管楽器でも声楽でも。ただし、初級者には難しいケースも多いでしょう。むしろ他のパートと組むなら、かなりの演奏技術を積んだ上でないと困難なケースがほとんどです。いきなりピヤノの初級者に、他のパートと組ませるには無理があります。

 そのもっとも単純な解決策として、「連弾」が挙げられます。これならピヤノ1台で済むし、超初級者から超上級者まで一緒になって楽しむことができます。曲さえ選べばピヤノを始めたばかりの学習者でも、通常のコンサート・ステージに乗せられるような曲を演奏することが可能となります。そしてレッスンを通じて「音楽の作り方」を講師と一体になって学ぶことが実現します。そう「講師と一体になって学ぶ」ことができる、という点は重要ですね。単にお手本を示したり、横から「ああしろ、こうしろ」という以上のレッスン効果を上げることができるでしょう。

 もっとも講師側は、生徒と一緒に弾きながら問題点を見つける、加えて生徒の演奏を最大限にまで引き上げられるようなアンサンブル能力が要求されます。まあ、これができないと、「人を教える」などということはできませんがね。また、常に生徒の進度に合わせての教材研究を怠らないことが必要です−−といっても、そんなに難しいことではありません。連弾曲など、それこそ山のようにあるわけですから。たとえば、片方のパートがワン・ポジションでありながら絶大な演奏効果を持つ、といった曲などたくさんあります。そう、生徒の進度に合った曲が見つけられない、などと宣う講師は、即座に引退をお勧めします。

 「連弾」はアンサンブルの一例に過ぎません。生徒がある程度技術をつけてきたら、他の楽器や声楽とのアンサンブルをレッスンに加えるのも良いでしょう。もちろん、高度な技術を要求する連弾/ピヤノ2重奏を続けて行っても良いわけです。

 アンサンブルのレッスンに関して、冒頭で友人のピヤニストたちが「単なる“欲”で片づけられない重要な課題」と指摘したことに触れました。彼ら/彼女ら曰く「ピヤノ以外の楽器は、ソロはもちろんアンサンブルを前提としたレッスンを必ずきっちり受けている。ところが日本のピヤノ教育は、まともなアンサンブル学習をする機会が非常に少ない。結果、“伴奏”が軽視されたり、“誰かと一緒に音楽を作る”という連弾/2重奏、そしてピヤノを含む室内楽が真の意味で育ちにくい土壌となってしまっている」。これは確かに頷けます。

 もちろん初心者のレッスンにおいて、基礎的な技術練習は必須です。アンサンブルだけをやれ、あるいはアンサンブルを重視せよ、と言っているわけではありません。そのあたりは誤解して頂きたくありません。なにより学習者自身の基礎ができなければ、進歩はありえないのですから。「連弾夜話:その八」までに述べた「きちんとしたレッスン」と「的確な教材選び」−−いずれもソロに関してですね−−に加えて、アンサンブルもレッスンに組み込むべきではないか、という提案です。

 少なくともわたくしは、もっともっと早くから、アンサンブルの魅力を知っていれば、もっともっとピヤノを楽しく弾くことが、そしてレッスンを長続きさせることができました。いま振り返ると、レッスンにおいて「連弾」の「れ」の字も出さなかった、かつてのピヤノ講師ども−−アンサンブル練習を提案する以前に、もっと根本的な意味で「きちんとしたレッスン」を実施しなかったダメ講師ども−−を糾弾してやりたい気持ちでいっぱいです。

 ただし、先生ご自身の確固たる信念と教育方針でアンサンブルをレッスンに取り入れない、というのであれば、話はまた別です。その方針に基づいて生徒にあえてアンサンブルのレッスンを施さないのであれば何の問題もありません。それはそれで、真に立派な教育方針でしょう。これは誤解なきように、申し上げておきます。



其の拾−−より良いレッスンを目指して:総括に代えて

 以上、自らの経験をベースにして「自分は、なぜピヤノ・レッスンを止めたのか」、その原因と、「もし、こんなレッスンだったら、きっと長続きしていただろう」というレッスン対策に関して、ポイントを指摘して参りました。この連載を通じて、多くの方からメールや直接のコメントを頂きました。

 いちばん多かったのは、やはり生徒、すなわちレッスンを受ける立場の人たちです。メールを下さった見ず知らずの多くの方が「
わたしも、まったく同じような経験をした」と指摘されたのには、改めて驚かされました。レッスンがつまらなくなって、ピヤノを習うことを止めてしまった、というのです。しかもその方々は異口同音に「その時は、なぜレッスンがつまらなくなったのか、感情でしか理解できなかった」と言います。そして、その方々の大半は、大人(20歳を超えて)から、みなさんピヤノのレッスンを、さまざまな形で再開されていらっしゃるのです。つまり、「ピヤノが好き」なのですね。それでも皆さん、一度は「つまらなくなって」レッスンを中断しているのです。

 コメントを下さった皆さんは一様に、最初に止めたとき、なぜレッスンがつまらなくなったかを明確に把握できなかったようです。ところが、再度レッスンを始めた結果「過去のレッスンは、なぜつまらなくなったのか」を、明確に、あるいは朧気ながらも把握されていらっしゃる点が共通していました。−−正直申し上げて、これには本当に驚きました。わたくしが過去、レッスンを止めてしまった原因と、あまりに一致していたものですから。ああ、自分だけではなかったのだな。わたくしの経験と、それに基づく駄文(当・レッスン夜話)は、あながち的はずれでなかったな・・・との感想を持った次第です。

ここで、わたくしの手元に届いたメールを、ひとつ、ご紹介しましょう。これを読んだ時は、本当に嬉しかったですね。

(引用、ここから)
 私も子供のころピアノを習っていましたが、中学校に入った頃に
 やめてしまいました。理由は自分でもよくわからないままでしたが、
 おそらくピアノが楽しくなくなってしまったからなんだと思います。
 ですが、音楽自体はやはり今でも好きだったので、今年に入って
 から再びレッスンを受け始めました。

 そこで、初回のレッスン時にその先生から指摘されたのが、かず
 みさんが指摘されたことと同じく、手の形や鍵盤の叩き方、力が
 入りすぎている等々という、ごく基本的な部分だったのです。
 私は昔習った通りに弾いたつもりだったのですが...。(以下、略)
(引用、ここまで)


 このメールを下さった方は、新しい先生について、それは充実したレッスンをなさっていらっしゃるとのこと。そうしたメールを読むと、わたくし自身まで、幸せな気分になります。嬉しい限りです。

 わたくしの手元に寄せられたメールは数十通。でも、これは氷山の一角でしょう。わたくしの作るマイナーなページですら、レッスンを受ける側からのコメントを頂けたのですから。すなわち、「きちんとしたレッスン」を受けなかったばかりに、どれだけ多くの人がレッスンを止めてしまっているかの、ひとつの証明でもあります。皆さん、ピヤノが好き−−もっと言えば愛している−−にも関わらず。「好きなのに、止めてしまう」・・・これは非常に大きな問題でしょう。せっかくの愛好者を、減らしてしまっているのですから。教える側の責任は、重大ですね。

 別にプロ・ピヤニストを増やすだけが、レッスンの目的ではありません。もちろん、それも重要な目的でしょう。しかし、「裾野を広げる」というのも、レッスンの重要な目的ではないでしょうか? たくさんの人がピヤノに接するとなると、愛好者の層は厚くなります。みんながみんな、リストやスクリアビンのエチュード、プロコフィエフやブーレーズのソナタを演奏会で弾ける必要はありません。だけど、せっかくレッスンするなら、きちんとしたレッスンを受けて、自分で弾けるところまで弾いて(個人差は、当然大きいのですが)、それで、もっともっとピヤノが好きになれたら、良いのではないでしょうか。そうなることが、ひいては聴衆のレヴェルを上げることにもなり、最終的にはプロ・ピヤニストのレヴェルも引き上げることにもつながる筈です。

 もっとも、わたくしがここで指摘したいのは、あくまでも「基礎のレッスン」に関してですが。

 さて、一方で「教える側」からの反応です。わたくしが普段おつきあいしているピヤニストやピヤノの先生方からは、「的確に問題点を指摘している」という声が、いくつか寄せられたに留まりました。もっとも彼ら・彼女らの反応は「(ここに書いていることは)そんなの、当たり前じゃん」。しかしながら、わたくしの交際範囲は限られており、こうした反応をする先生方も、あまたいらっしゃるピヤノ講師の中の、それこそ氷山の一角なのかも知れません。

 一発くらい「お前の言ってることは、理想論だ」くらいの反応があれば、面白かったのですが。−−もっとも、そうした反論が来れば、理詰めで切り返すだけですが−−。唯一、妻・ゆみこが「ここまで求めるのは、一般のピヤノ講師に対して、ちょっと酷かな」とコメントしたことがありました。そこでわたくしは、「例えば算数で「足し算」を教えるのに四則演算の概念がきちんと説明できない人に教わりたいと(あるいは自分の子供を習わせたいと)思いますか?」(其の五・参照)と反論。気の毒に妻・ゆみこは黙ってしまいましたが。(申し訳ありません、申し訳ありません ==>妻・ゆみこ)

 以上、わたくしの思うままに書いて参りましたが、これをお読みになって、レッスンに関して何らかの参考にして頂ければ、幸いです。さらに、「これを読んで、自分だけじゃなかった。勇気づけられた」という学習者の方がいらっしゃれば、もっともっと幸せです。

 最後に、このエッセイに対して、ご意見を下さった、すべての皆様に深く感謝いたします。適切なコメントを寄せ、本編執筆のよりどころとなった、それは素晴らしいレッスンをしてくれた、妻・ゆみこに併せて深謝致します。

 <完>

 
Copyright
Yumiko et Kazumi TANAKA
Tokyo Japan 1997-1999