それは可愛い小品集です。素朴な味わいに満ちています。ブルックナーと言うと、重厚長大の代名詞のようなイメージがありますね。それにしょっちゅう曲が"痙攣"していたり、やたら偏った付点のリズムが出てきたり、金管がパワーを振り回したりする交響曲。空腹時に聴くと体力を消耗するし、満腹時に聴くと眠くなる。
わたくしたちのように「ブルックナー素人」にとっては、どの交響曲を聴いても、みんな同じように聞こえてしまいます。
その昔、夫・かずみは某所で「ブルックナーの交響曲は安上がりです。どれを聴いてもおんなじなので、レコード1枚持っていれば十分」と放言、居合わせたブルックナー・ヲタクにボコボコにされた経験があります。
わたしたちにとって、そうした存在のブルックナーですが、この曲はちょっと違います。ちょっとどころか全然違いますね。重厚さとは対極。ただし、軽妙・軽快ではありません。柔らかで穏やかな3曲です。3曲のうち第1曲のト長調は、ゆったり静か。技術的にもとても平易。2曲目のロンド・ト長調は明るくて快活。3曲目は後半から盛り上がりを見せます。
どの曲もバイエル修了程度で十分に弾けます。特にプリモは、ポジションの移動範囲が非常に小さい。手の交差や接近はまったくありません。連弾を始めたばかり、あるいはほとんど連弾経験のない方にも楽しめます。両奏者とも、小さな手でも無理なく弾けます。ペダルの指示はありませんが、セコンダが気を利かせて適切に踏めば十分です。発表会やアンコールに最適でしょう。初心者レッスンの副教材にもぴったり。…なのに、ほとんど弾かれないのですね、この曲。
以前どなたかがつぶやいていました。「ピヤノ屋は、ブルックナーと言う名前に無関心」。この曲が鍵盤に登らない深層には、案外とこうしたピヤノ弾きの意識があるのではないでしょうか。
(注1)なお、当ページの読者「樋口さん」から、この曲のCDが出版されているという情報が寄せられました。
CPO 999 256-2 「ANTON BRUCKNER Piano Works」(Wolfgang Brunner,
Michael Schopper)
実に面白くない編曲です。
原曲はブルックナーの交響曲の中で、個人的にもっとも好きな第7番ホ長調と並び、"からだで受け入れやすい"曲であります。「浪漫的」(Romantische)という副題が示すほど、この時代の他の作品群--当該作曲者および他者--と比較して、とりわけ浪漫的とは言えませんが、馴染みやすく魅力的な旋律に溢れた作品と言えましょう。
ただし、それはあくまでも管弦楽で演奏した場合の話。ピヤノで演奏するとなると別問題です。もっともブルックナーの作品では交響曲第3番・ニ短調にGustav
Mahler編曲の連弾版という、素晴らしくピヤニスティックな魅力に溢れた版があります(参照CD:Evelinde
Trenkner & Sontraud Speidel: MDG 330 0591-2:出版社不明です。ご存じの方、どうぞご一報下さい)。マーラーは自分の交響曲に関しては「大地の歌」をのぞき、まともなピヤノ用編曲をしなかったのに、他人の作品には手を出しているのですね。自身の作品も、このくらい優れた連弾編曲を残しても良かったのに。書いても彼の作品だと、連弾してくれる相手がいなかったのでしょうか? 寂しいことです。哀れなことです。
さて、この交響曲第4番。原曲通り、例によって最初から「痙攣」しています。編曲の際に、一応はピヤニスティックな表現ができるような配慮はしてあるようです。しかしそれは、最低限。可能な限りそのまま、管弦楽をピヤノ連弾に移し替えたとしか受け止められない、怠惰な編曲です。弾いても演奏効果は上がらず、くたびれるだけです。ブルックナーを愛していない限り、演奏会など、まともな場所で弾くのは止めましょう。その場合でも、原曲を参考にして多少楽譜に手を入れる必要があります。このまま弾いたら聴かされる側は、たまったものではありません。もっとも、ご家庭や、仲間内の集まりで弾く分には、まったく問題なく楽しめますが。
ちなみに、きちんと弾く場合、かなり工夫しないと、あの美しい旋律群が厚い和音の中に埋もれてしまいます。編曲としての、素晴らしい欠点です。それでいて、L.v.Beethovenで言えば「告別」あるいは「テンペスト」を弾きこなせるくらいのテクニックが、両奏者に要求されます。しかも両奏者の手の超接近(下手な交差より厄介)、4本の手の間での旋律の受け渡しが頻繁にあります。あまり深く考えずに管弦楽をピヤノに移したことの如実な現れでしょう。
加えて極めて卑怯な楽譜です。ブルックナーの作品は周知の通り、1つの作品でいくつもの版が出ています。ブルックナーというおっちゃん、よほど自分に自信がなかったのでしょう。人の言うことを「はいはい」と聞き入れ、他人が自分の作品に手を入れても、文句も言わなかったみたいです(こんなやつが上司/同僚/部下にいたら、ぶん殴ってしまいます=夫・かずみの場合)。卑怯なことに、この編曲はどの版かが明記されていません。ブルックナーに詳しくないわたくしたちは、いったいどの版を連弾化したのか分かりません。
もっと卑怯なことに、編曲者の名前も記述されていません。いい加減な楽譜です。ちなみに、ペダリングは楽譜にまったく記載されておりません。
非常に凡庸な「編曲」です。ある意味で邪悪と言って良いかも知れません。編曲上の工夫は何もなし。単に管弦楽を連弾譜に置き換えただけです。それどころか、原曲の美点を損なっているところすらあります。「編曲」と呼べる代物ではありません。
わたくしたちの友人が組織する「聖ブルッナー騎士団」(注:「ぶるっくなーさま」を神のように奉り、日々、「ぶるっくなーさま」の音楽を聴き---職場においてヘッドホンを着用してでも---その伝導に勤め、その音楽によって魂を浄化させようとする人たち)がご覧になったら、激怒するような「編曲」です。
確かにこの「編曲」、ピヤノでも実に美しく響きます。しかしそれは、曲本来が持つ美しさに他なりません。ピヤノならではの美点を引き出したものではないのです。手元にあるハース版のフルスコアと突き合わせてみたのですが、この連弾編曲は「交響曲を単に連弾に移し替えただけ」という代物でありました。見事なほどに、ピヤノで弾くための、何の工夫もなされていないのです。もちろん、トランスクリプトの類は皆無。ご家庭で楽しむ分には特段問題はありませんが、鑑賞に堪えうるものではありません。コンサートや録音などの演奏に持ち出すには、明らかに不適切です。
冒頭で「邪悪」と書きました。どんなところが「邪悪」なのか。これをご覧下さい。
大切なトレモロが無惨にも切断される、それは邪悪な冒頭 |
冒頭11小節は、プリモのソロになります。その部分が、この譜面。4小節目の2拍目(この冒頭は2分の2拍子です)と5小節目の1拍目、そして7小節目の最後の拍。「大事なトレモロ」が、見事に消されております。このプリモ右手の休止符がある場所、原曲ではヴァイオリンのトレモロが休み無く続くのです。「ブルックナー開始」とも言われる、弦のトレモロですね。これが無惨にも切断されているのです。特に7小節目では、6小節目の後半からのクレッセンドが、ひとつの「山」を作ります。ここで果たすトレモロの役割は、非常に重要です。それが、バチンと断ち切られている。特にピヤノでは「1度打った音は減衰するだけ」という特性があるため、7小節目のトレモロが果たす役割は、非常に重要です。そうでなくとも、4小節目、5小節目と合わせて、許し難い暴挙であります。原曲を頭に思い浮かべながら弾いてみると、非常に奇異な感じが致します。しかも、プリモ自身の手が接近/交差するという体たらくです。
この箇所、原曲ではトレモロがヴァイオリン、主題がチェロとホルンが、それぞれ受け持ちます。切断されたトレモロは、ヴァイオリンとチェロ/ホルンの音域が重なる部分。そこで、この編曲では主題を残し、トレモロを切断して「やりくり」したようです。これは酷い。「邪悪」以外の何物でありましょうか? 非常に安直なやり方ですが、このトレモロを、最初から1オクターヴ上げて弾くようにしておけば、何の問題も起こらないことなのですが・・・。とにかく「管弦楽を連弾化」して、「無理な所はとっぱらってしまえ」という、実にどうしようもない「編曲」なのです。
こうした箇所が、全曲のあちこちに見受けられます。「ちょっとしたお楽しみ」以外に、何らの価値も見いだせない「編曲」であります。「編曲」と呼ぶのも、躊躇われるくらいです。
加えて、卑怯なことに、楽譜には編曲者名が明記されておりません。どちらのどなたでございましょう? こんな「邪悪」な代物を「編曲」として出版したのは。
もっともこの「編曲」、唯一の「活用場面」があるのですが、それは別途報告することに致します。
なお、この楽譜は比較的容易に入手できます。価格は9ドル95セント。安い。