連弾庵主人日乗
2003年11月


...... 2003年 11月 01日 の日記 ......
■[ NO. 36 ]
聴いてがっかり
雨、のち曇り、ときどき晴れ。体調は良好だ。午後、ぱぐぱぐたちの散歩に出たが、何となく蒸し暑い。ほんのちょっとの距離を回ってくるのに、1時間半もかかった。ぱぐぱぐたちも、歳なのである。このところ両方とも急に老けた。とくに「ぱぐ母さん」(11歳9カ月)の老け方が急だ。いつまで元気でいてくれるのだろう、と心配になる。

散歩から帰ってきて、ぱぐぱぐたちを「洗濯」した。1カ月ぶりのお洗濯。もの凄く汚れていた。こんな「汚れ」が、毎朝一緒に眠っていたかと思うと、ちょっとゾッとする。が、まあしょうがない。犬なのだから。拙者が時間をかけて綺麗にあらったので、ぱぐぱぐたちはピカピカになった。

ところで、諸兄諸嬢は、拙者がサイトで「今週の1枚」というコラムを作っているのを御存知であろう。このコーナー、原則として「執筆した時点で、ネット接続環境とクレジットカードを持っていれば、誰でも入手可能なCD」を紹介している。そうした条件でなければ、紹介しても意味がないからだ。廃盤になってしまったものや、東京の大手CD店に行かなければ入手できないものについて書いたところで、沖縄県東大東島や岐阜県鬼頭郡八墓村にお住まいの方には、何らの役にも立たないのだ。

であるから、こうした条件の下に執筆を続けているのだが、何分にも苦しい状況に陥ってきている。ピヤノ・デュオという分野では、CDなど出たはいいが、大半はあっという間に廃盤になってしまう憂き目にある。珍しいものはもちろんのこと、アルゲリッチさまがお弾きになられたものや、ラベック、ペキネルといった人気+実力者ですら、かなりの数が廃盤になっている。これでは、紹介したたくても、原則に照らし合わせるとできない。数百枚のピヤノ・デュオのCDを抱えながら、その半分も紹介できないのは、そのためだ。

ただ、このコラムを読んで下さっていらっしゃる方が大勢いることが分かっている。何とか続けたい。そう思って、貧乏サラリィマンの身ながら、折に触れCDを購入し、新たなネタにしようとしているのである。

先日も書いた通り、今年の「音楽用予算」は尽きた。ところが幸いなことに、あるところに書いた拙文で原稿料が出た。これでCDを買おう。そう思った拙者であった。

拙者の紹介しているCDは外人が殆どだ。たまには日本人、特に若い人のCDも紹介したい。拙者はそう思ったのである。丁度、偶然見つけたインディーズのサイトで、最近売り出し中の、若い日本人デュオのCDを知った。「この奏者は、なかなか良い」という評判も聞く。よし、これを聴いて、拙者のサイトで是非紹介しようとしたのである。

拙者、このCDを、とても楽しみにしていた。本当に期待していたのである。

ところがだ。聴いてびっくり。素人同然の演奏だったのである。気の利いたアマチュアなら、これより高度な演奏なんて、いくらだってできるぜ。「わたしたち、ここまで弾けるのよ」という主張だけしかない、どうしようもない録音だったのだ。心の底からがっかりした。このレベルの演奏では、批評の対象にならないし、サイトで紹介する意義もない。

やっとのアルバイトでもらった大切なお金を、クズみたいなCDに使ってしまったのである。それも、折角サイトで紹介しようと思って期待して買ったCDだ。聴いていて、本当に悲しくなった。がっかりした。

そりゃ、演奏に好き好きはあろう。ただし「レベル」というものがある。妻もその演奏を聴いて「あなた、せっかくアルバイトでもらった大切なお金を、こんな下らないものにつぎ込んだの?!」と、のたもうた次第である。

この演奏者が何方であるのかは、あえて申し上げない。しかし言う。ここまで低レベルの演奏をCDなどにはしないで頂きたい。3000円、返せ!

正直、がっかりした拙者であった。


...... 2003年 11月 02日 の日記 ......
■[ NO. 37 ]
夢を見るような
晴れ。気持ちの良い秋晴れである。

この秋晴れの午後、拙者は
D.バレンボイム指揮シカゴ交響楽団+シルヴィ・ギエム+東京バレエ団の「奇蹟の響演(ミラクル・ガラ)」なる催し物に行ってきたのである。

この催し物、ポイントは3つある。

ひとつは、シカゴ交響楽団が楽団創設以来、初めてピットに入るということ。2つ目は、バレンボイムという指揮者とギエムという踊り手が共演するという“とんでもないこと”。もう1つはシカゴ交響楽団+東京バレエ団と言う組み合わせで、「春の祭典」「火の鳥」「ボレロ」という、音楽としても舞台としても最高の取り合わせを聴いて、そして観ることができるのである。

不肖かずみ、「春の祭典」も「火の鳥」も「ボレロ」も、何度もステージを前に聴いている。しかし「踊り」は観たこともない。ああ、この機会を逃すことはなかろう。

最初にこの公演を見つけたのは妻だった。「これ、行こうよ」。拙者、バレエの公演までウオッチしていなかったので、漏れていた。おお、何という素晴らしい組み合わせ。何という演目よ。行かねばばらぬ、行かねばならぬ。ああ、天は拙者達の望みを応えてくれたのであろう。何とか2人分のチケットを入手することができたのである。しかも1階でピットに近く、舞台も死角がない席だ。

残念ながら、会場となる東京文化会館のピットは、もの凄く狭い。3つの演目も、とてもすべての奏者を入れることはできない。管と打楽器は削れないから、結果的に弦楽器を削った。拙者、ピットのところに行って椅子の数を数えたので、それは確実である。それでも、身体の大きい外人さんには、とても可哀想に感じる狭いピットであった。

オペラやバレエの公演の楽しみの1つは、ピットをのぞき込みに行くことにある。「春の祭典」が始まる前、2人でピットをのぞき込みに言ったら、妻がチューバ奏者のおっちゃんに手を振った。おっちゃん、笑顔で応えた。いいねぇ、これ。

さあ、演奏が始まる。

バレンボイム登場。まだ1音符も弾いていないのに、会場から「うぉー!」という大歓声。バレンボイム信者らしい。

初めて観た、「春の祭典」の舞台。それは素敵だった。ああ、音楽がこのようにして舞台に再現できるのだ。ピットという条件、そして弦を減らしているという条件でも、爆発するシカゴ交響楽団。それに呼応する、東京バレエ団。

この演出、人間の「性の営み」をモティーフにしているのだけれど、眼の醒めるような舞台に、唖然とするような管弦楽。両者が一体となって、不肖かずみを襲ってきたのである。このエロティックな舞台を支える、豊饒の管弦楽。まさに音と肉体のぶつかり合いだ。

しかし、シカゴ交響楽団は凄い。ピットで弦を減らしたという条件でも、素晴らしい響き。これが舞台の上の管弦楽だったら、どれほど凄いことだったろう。演奏に泪を流し、舞台に泪を流した、不肖かずみであった。続く「火の鳥」も同様である。

ちなみに使った音楽は、「春の祭典」が1947年版、「火の鳥」が1919年版。拙者がピットに行って楽譜を確認し、楽員さんとも話しているので確実である。

さあ、「ボレロ」である。

開演前にピットに行って、ちょっと神経質気味になっていそうな、第一小太鼓の兄ちゃんに声をかえた。「やあ、頑張ってねっ」と。兄ちゃん、片手を振って笑顔、拙者は親指立てて「イェイ!」。いいなぁ、こういう瞬間って。普通のコンサートではあり得ない。

明かりが消えて、バレンボイム登場。もう、それだけで会場は大騒ぎである。

ひとしきり騒ぎが収まって始まった「ボレロ」。さっき拙者が声をかけた小太鼓の兄ちゃんのソロから始まる。

舞台は真っ暗だが、ギエムの指先から光が当たる。その指先が例えようもなく美しい。それが徐々に全身に広がっていくのである。ああ、何と言うことだろう。ギエムの動き。指先からつま先に至るまで、「女性の持つ美」をこれでもか、と見せつけた動き。女性の美しさを、極限まで表した動きである。それに合わせる絶妙のシカゴ交響楽団。

楽器の参加が増えるたびに、回りを取り囲んだ東京バレエ団の男性ダンサーの動きが重なる。男性ダンサーの動きが加わっても、決して淀みのない輝きを放つギエム。そして豊饒の響きを重ねるシカゴ交響楽団。

まるで、夢でも見ているような瞬間だった。

ああ、なんという美しい動きだろう。ギエム。全身から、持てる美しさを発しているのである。そしてそれを支えるバレンボイムのシカゴ交響楽団。

そして、頂点を迎える舞台。

演奏が終わって一瞬の静寂。その後に巻き起こる大歓声。不肖かずみも、思わず席から立ち上がって「うぉぉぉっ!」。

バレエの公演としては異例に、カーテンコールで、オーケストラの全員がバレエ団とともにステージに上がった。もう熱狂の嵐である。中央にバレンボイムとギエム。この2人が手を繋いでステージの中央に出たら、観客総立ち。このような美しいシーン、なかなかないものである。

ギエム。本当に美しかった。それを支えたシカゴ交響楽団。拙者のようなものには、言葉にすることはできないであろう。

嵐のような、大歓声は延々30分も続いたのであった。

ひとこと言うと、「ボレロ」でトロンボーンのソロが転けた。ボロボロに転けたのである。しかし、心優しい妻は言う。「あれだけ、ギシギシに詰め込まれたピット。十分な演奏ができなくても仕方ないわ」。

でも、拙者は思う。あのトロンボーンのおっちゃん、終演後に行った居酒屋で、団員のみんなからボコボコにされただろうなって。


...... 2003年 11月 03日 の日記 ......
■[ NO. 38 ]
愛しく思えば思うほど
一日中、殆ど雨。時折、曇り。雨が止んだから・・・と、ぱぐぱぐたちの散歩に出たら、細かい雨が降ってきた。ただ、秋の雨としては暖かい。妙な気分である。

「ぱぐ」が、このところ足を悪くしているので、妻が購入してきた「ワンワン専用カート」を引っ張ってのお散歩だ。「疾呼」をあちこちでした後、「雲固」をすると、「ぱぐ」をカートに乗せてしまう。獣医さんから「くれぐれも無理をさせないように」との指示がでているからだ。

「ぱぐ」も「あかね」も、結婚前から妻が飼っていたパグ犬だ。初めて彼らと出会ってから、もう何年になるだろう。一緒に暮らしだしてからも、かなりの月日が経った。「ぱぐ」も「あかね」も、幸い拙者にとても懐いてくれた。今では、かけがえのない家族である。ピヤノを弾いていると、弦の下に潜り込んで聴いている。CDをかければスピーカの前で、大人しく音楽を聴いている。何とも愛おしい家族である。

しかし先日も書いたように、両名とも老けた。最初に出会った頃は、2頭で取っ組み合いのケンカをしていたが、もうそのようなことをすることもなくなった。寂しい限りである。

「愛おしい」と本当に思った瞬間から、別れの日は近づいてくるのだ。それは、人間であれ、動物であれ同じである。愛おしさが募れば募るほど、別れの日は近い。その「悲しい日」は、決して避けることはできないのである。

昨日に続いて珍しく快調だったので、12月某日、都内某所で弾く連弾曲の合奏練習をした。何を弾くか? さあ、お楽しみ。

夜も快調だったので、大好きなウイスキーを呑みすぎた。ボトル3分の2が空いた。それで止めておけばいいのに、焼酎のお湯割りまで呑んだ。

恐怖の結果は、翌日に待っていた。


...... 2003年 11月 04日 の日記 ......
■[ NO. 39 ]
天は味方した
曇り。朝、7時から仕事を始めなければならぬ。何とか起きあがった。恐ろしい頭痛がする。吐き気も酷い。どうやら、昨夜、呑みすぎてしまったようだ。眠れなかったので、午前3時まで、アルコールを呑んでいた。

それで、6時半に眼が醒めたら、アルコールが全身に充満しているのは、言うまでもないことだろう。でもやらなばならぬ。仕事が待っている。やらねばならぬ。午前中が7時からの在宅勤務なのが助かった。

書斎で仕事をしていると、「ぱぐ」が来る。拙者の机の下に敷いた毛布の上で、グウグウ寝る。拙者の気分が悪くなって、書斎に隣接した拙者専用の寝室に倒れ込むと、「ぱぐ」も一緒に布団の中に潜り込む。これを何度繰り返したことか。

這々の体で、午後出社。すぐに仕事が待っている。朝が早かったので、20時前にはオフィスを辞す。

21時過ぎ、自宅に電話あり。何と「サントリーホール・チケットセンター」からだ。先般、11月16日のクリスティアン・ティーレマン指揮ウイーン・フィルのチケット争奪戦で敗退したことは、既に皆様にご報告した通りである。このときチケットセンターが一瞬だけ、「キャンセル待ち受付」をしていたのだ。招待客やスタッフにキャンセルが出たとき、抽選でチケットを割り当てる・・・というサービスだ。「ダメもと」で、それに申し込んだ拙者であった。キャンセル待ちは1000人規模でいるらしい。しかも「余り」のチケットは数枚だ。もうこの時点でチケット入手は諦めたのである。

とことがだ。天は拙者に味方した。行いの正しい者を、天は平素からご覧になっていらっしゃるのである。「チケットセンター」の女性職員が言うには、「S席が2枚確保できました。今からでもお入り用ですか?」。もちろん「いる、いる、いるっっ!」と叫んだ拙者である。

しかし、先般も申し上げたように、もう予算はない。仕方なく「肩掛け用のビジネスバッグ」を買おうとした資金を、これに充当することにしたのである。ビジネスバッグはいつでも買えるが、ウイーン・フィルは、またいつ聴くことができるか分からないからである。

「物」を持つことも楽しいが、「心の財産」を持つことも、また幸せなのである。これでまた、拙者の「心の財産」が、ひとつ増えることであろう。


...... 2003年 11月 05日 の日記 ......
■[ NO. 40 ]
広がる「輪」
曇り。夜になって雨。

今朝も朝7時から仕事。例によって「ぱぐ」が仕事場に来る。ところが昨日のように「寝たり起きたり」をしないので、飽きてしまったのであろう。しばらくは拙者の足下にいたのだが、いつの間にか姿を消した。

午前中の仕事が終わり、オフィスに出ると、もちろん仕事が待っている。今日は通常の仕事のほかに、某月刊誌に連載しているコラムの締め切りだ。本当は先の連休中に仕上げようとしていたのだけれど、ネタとなる民事訴訟事件の判決文を解読するのに時間がかかって、執筆が締め切り間際になってしまったのだ。何とかすべてを終えて帰宅する。




サイトを運営していると、毎日、様々な方からメールを頂く。とても嬉しい限りである。どのメールにも、丁寧に返事を書く。拙者、物書きで生計を立てているので、文章を書くのは、まったく苦ではない。

それどころか、拙者の大好きなピヤノ・デュオ関連で頂いたメールに返信するのは、とても楽しい。ただ、1日に書けるメールの量は限られているので、返信が遅くなってしまっている方もいらっしゃる。誠に申し訳ない次第だ。

拙者は、音楽学校や教育学部の音楽関連学科の出身ではない。実はそれが幸いしている。どこの学校の、どのクラスの出身者の方とでも、学閥やクラス閥に関係なく、楽しくお付き合いできるからだ。専門家や演奏家の方々とも、そうした「しがらみ」なくお付き合いでき、自分の「財産」にできるところが嬉しい。

とても有り難いことに、そうした専門家の方々が、拙者のような者に対しても、実に丁寧に対応して下さる。嬉しい限りだ。

もちろん専門家だけではない。一般のピヤノ・デュオ愛好家の方々と知り合えるのも、とても幸せだ。皆様とメールで、時には直接にお目にかかってお話しするのは、拙者にとって大変に有り難く嬉しいことである。

こうした機会が、もっともっと広がればいいな。でも、いくら「輪」が広がっても、そのお一方お一方と、大切にお付き合いしたい・・・そう願っている拙者である。


...... 2003年 11月 06日 の日記 ......
■[ NO. 41 ]
怪しげな楽譜
雨、のち晴れ。

体調は、すこぶるよろしい・・・のだが、左側の胸が時折痛む。昨日あたりからだ。以前、心電図に異常があったことが長く続いたのであるが、最近は治まっていた。その再来かと思うと、何となくイヤな気分になる。でもそれを除けば快調なのだ。

ただ、このところ朝7時から仕事をしているので、夕方になると眠くてたまらぬ。そして眠気が去ると、また目が冴える。どうしたものであろうか。

勤務先から帰宅すると、以前発注していた楽譜が届いていた。大半が連弾譜である。どれも怪しげなものばかりだ。ご参考までに紹介しよう。

アレンスキー:交響曲第1番(連弾:タニエフ編曲)
アレンスキー:交響曲第2番(連弾:作曲者自編?)
タニエフ:交響曲第3番(連弾:作曲者自編?)
タニエフ:組曲第2番(連弾:作曲者自編?)
リャプノーフ:交響詩「ハシシ」(連弾:作曲者自編?)
リスト:レーナウ・エピソード(連弾:作曲者自編)

どうだ。怪しいものばかりであろう。特にリャプノーフなんて、とっても怪しい存在だ。「こんな貴重なもの、高かっただろう?」って? フフフ、そんなことはない。ほとんどが6ドル95セント、高いものでも9ドル95セント。まるでスーパーの見切り品みたいな値段なのである。ちょっとした鮨屋で旨い物をちょこっと頂いただけで、優にこれらのものなど買えてしまう。

もちろん全部レプリントだ。こんなもの「現物」が中古市場に出ていたら、どれも100ドル近く、あるいはそれ以上の値段がつくことであろう。まことに便利なショップができたものである。これらはみな、著作権が切れているので、こうした出版も問題はないのだ。

ただ、レプリントを作るからには、「底本」がなければならぬ。それをここまで集めた、この書店には感心してしまう。いったいどこから集めたのだろう・・・と、不思議にすら感じてしまう拙者である。しかもどれもきちんとした製本だ。それが何故、この価格でできてしまうのか、これまた不思議である。

実は、上記に示した以上に怪しいものも一緒に入手した。しいて言えば、管弦楽のフルスコアだ。あまりに怪しすぎるので、こちらでは紹介しない。もちろん非合法ではない。拙者、これでも経済司法を担当する物書きである。不法行為に加担することなどはない。ただ、権利関係が複雑になっている出版物なので、Webでの公表を慎重になっているだけである。

ご興味のある方は、メールを頂きたい。また、この書店がどこで、どんな注意が必要かをお知りになりたい方もメールにてご一報頂きたい。何故って? 発注の「コツ」を逃すと、あなたの元には、永遠にこのショップからの郵便物は到着しないからである。


...... 2003年 11月 07日 の日記 ......
■[ NO. 42 ]
視覚と聴覚
曇り、時々雨、のち晴れ。

このところ首都圏近郊は、妙に暖かい。気温からすると10月上旬の陽気だ。しかもなぜか湿っている。

その陽気に誘われたのだろうか、拙者のオフィス近辺でも、我が「連弾庵」近郊でも、秋の虫が合唱している。つい先日までは、その連中、声も聞こえなかったのに。

拙者は虫のことは殆ど知らぬ。肌寒くなってきたので、てっきり連中はあの世に行って、今年の営業は終わりになっていたと思った。ところがしっかり復活して鳴いているのである。

まこと、不可思議なことである。連中、生きていたのであろうか? どなたか、このからくりを御存知の方、ご教授頂きたいものである。

日本では、北海道方面で、雪の便りが聞こえた。連弾庵近傍では、駅前通の欅並木が色付き、近所の公園とバス通りにある大きなプラタナスは、葉を落とし始めている。もう、すっかり晩秋の光景だ。それなのに「秋の虫」。何とも視覚と聴覚のバランスが取れない、ここ2〜3日である。

これをお読みの諸兄諸嬢の回りでは、如何であろうか。

もっと書きたいが、少しばかりくたびれた。今夜は、これで沈没である。


...... 2003年 11月 08日 の日記 ......
■[ NO. 43 ]
一足早いクリスマスツリー
曇り、ときどき晴れ。

昨日に引き続いて、湿った空気である。連弾庵のピヤノも、一気に音がくすんでしまった。打鍵を終えても残る音まで現れた。さあ大変。朝から、ガンガンに除湿をかけまくった次第である。「本当にこれが11月か?」と思わせるような陽気だ。皆様の回りでは如何であったろう。

久々に銀座に出た。その前に、拙者、オフィスに行った。マウスを取りに行ったのである。今朝方、妻のパソコンにぶら下がっているマウスが、いきなり昇天した。パソコンはIBMの「Think Pad」なのでポインティング・デバイスは付いているのだが、妻にはどうにも使いづらいらしい。「新しいのを買おう」としたが、ふとオフィスで新品のワイヤレス・マウスが眠っているのを思い出した。もちろん会社の備品ではない。拙者がたまたま人からもらったものだ。

オフィスに出ると、大勢の人たちが働いている。まあ、職業柄、当たり前だろう。拙者がたまたま休みなだけなのだ。「あれ、何しに来たの?」と言われ、「マウスを取りに来た」と言ったら、変な顔をされた。当然だ。ただ、このマウス、買えば5000円近くする。財政難の折り、定期券でオフィスに出れば、タダでマウスが手に入る。これは行かない手はないであろう。まあ、妻のマウスが昨日の朝までに昇天していたなら、わざわざ休日にオフィスに出ることもなかったのだが。それも宿命であろう。

銀座に出たのは拙者の買い物---CDではありませんよ。ご安心下さい松永先生---のためだが、別行動の妻を待つ間、4丁目あたりをうろうろしていた。もの凄い人出である。特に「ミキモト本店」の前は、大勢の人だかりだ。テレビ・クルーはいるし、新聞社の連中もいる。何事か!? 有名人でも来るのだろうか? 拙者も野次馬共に混じった。

何とそれは、ミキモト本店の「クリスマスツリー」の点灯イヴェントだったのである。大きなクリスマスツリーがどっかりと置かれ、その周囲にガラスのオブジェが並んでいた。拙者が寄っていったときには、丁度ツリーに点灯されたところであった。

ちょっと気が早いとは言え、今年ももうそんな季節になったのだ。つい先日まで夏だと思っていたのに。ツリーは、とても綺麗だった。拙者、こうしたものが大好きである。何だか、こころがワクワクする。これから銀座はもとより、日本各地、いや世界のあちこちで---南半球はどうなんだろう???---クリスマスの飾り付けが始まることであろう。何度かこの時期、欧州に行ったことがあるが、みんな楽しそうにクリスマスの準備をしていた。見ている拙者まで楽しくなった次第である。

もう、来年の足音は、すぐそこまで近づいてきているのだ。

【追記】そのツリーの写真、撮影できなかった。拙者、デジタル・カメラを携帯するのを忘れたのである。皆様にその光景をお見せできないのが残念だ。申し訳ない。


...... 2003年 11月 09日 の日記 ......
■[ NO. 44 ]
通り過ぎる秋
曇り、のち雨。

昨日まで妙に暖かい日が続いていた首都圏であるが、今日になっていきなり冷え込んだ。昨日比で最高気温が6度以上低い。一気に晩秋の気温である。

これは、本州を縦断するように秋雨前線(・・・とこの時期でも言うのだろうか?)が、ドカンと座っているためである。このため首都圏近辺では冷え込んだ上に雨が降るという天候になってしまった。

今日は衆議院選挙の投票日だ。何はともあれ、投票に行く。投票所までは歩いて10分ちょっとだが、ぱぐぱぐたちを連れて行くので、かなりの時間がかかる。おまけに「ぱぐ母さん」の後ろ足の状態がよくないので、いつ転けるか分からず、犬用のカート---皆様御存知だろうか。犬専用のベビーカーみたいなものが存在することを。足が弱った犬を乗せるために作られたものである---をゴロゴロと押しながら、投票所へ向かった拙者たちである。案の定、往復の半分以上は、カートに乗った「ぱぐ母さん」であった。

住宅街を歩くと、木々は紅や黄色に染まり、ハラハラと葉を散らしている樹もある。廃屋の敷地に、大きな柿の木があった。実をいっぱいにつけている。あの柿は、渋柿だろうか、甘柿だろうか・・・と思案を巡らせた拙者であった。

しがない住宅街にも、秋が通り過ぎようとしている。


...... 2003年 11月 10日 の日記 ......
■[ NO. 45 ]
霧雨、宵闇の幸せ
雨、ときどき曇り。

昨日に引き続いて、肌寒い1日。もっともこれが平年並みなので、先週が異常だったのであろう。

休日の翌日は、気分もからだもブルー。「仕事を死ぬほど愛している」という人以外は、大抵が拙者と同じなのではないか。拙者だって仕事は嫌いではない。むしろ現職は気に入っている。その拙者ですら、この有様だ。小雨のぱらつく中、ノソノソと出勤した拙者であった。




大家の演奏に感動することは多いが、極めて稀であるが若く将来性のある素晴らしい感性に出会ったときも幸せを感じる。今日は、そんな幸せな夕刻だった。

先日のことである。桐朋ご出身の
加藤真一郎さんとおっしゃる方からメールとお手紙を頂いた。11月10日に東京でやはり桐朋ご出身の瀬尾久仁さんと組んで2台ピヤノのリサイタルをする。ついてはお聴き頂けないか…という大変丁重な内容だった。お手紙にはお二人に演奏を録音したMDまで添えられている。なかなかはつらつとした演奏だ。

このお二人、常設のデュオを組んでおり、何と今年の「マレイ・ドラノフ・国際2台ピヤノ・コンペティション」のファイナルに残られたというではないか。これは、コンペの応援も兼ねて、行かねばならぬ。この日は仕事が早めに上がったので、代々木上原まで足を運ぶことができた。

曲目は以下の通り。すべて2台ピヤノである。

・モーツアルト:2台のピヤノのためのソナタ Kv.448
・ドビュッシー:白と黒で
・ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」からの3楽章
・ストラヴィンスキー:春の祭典

詳細な批評を書くと数百行になってしまうので、例によって要点のみ。最初のモーツアルト。音は非常に綺麗だしアンサンブルも抜群なのだけど、ちょっと大人し目。ただ、特筆すべきは、2台のピヤノがきちんと「お喋り」している点だ。2台ピヤノなら、「2台がお喋りして当たり前だろう」って? とんでもない。この曲で2台のピヤノが「自然な会話」をしているように聴かせるのは、実に難しいのであるよ。弾いている本人たちは「対話」しているつもりであっても、聴き手にそれを感じさせる演奏など、100組(レヴェルはバラバラとして)に1組でもあればいいのだ。この瀬尾+加藤組は、それをものの見事にやってのけた。特に3楽章が抜群だ。

ドビュッシー以降は持てるテクニックを全開。非常に高度なアンサンブル、明瞭で表情とダイナミクスの広い音色とタッチ。完璧に近い、曲の構築性。さすがの拙者も唸った。「春の祭典」の第二部の後半で、ややアンサンブルが乱れたが、そんなことはご愛敬。実に立派に曲をまとめていた。これまでもたくさんの実演やCDの2台ピヤノ演奏を聴いているが、今の日本人デュオでここまでできるのは、本当に少数だ。

もちろん「若さ」を感じさせる点はある。しかしそれはとても爽やかで、大変に好感が持てた。まだ25歳のお二人。この年齢でこれだけの2台ピヤノ演奏ができるとは素晴らしい。行く末が非常に楽しみである。

終演後、短いお喋りをさせて頂いたが、お二人ともとても感じの良い方々であった。是非ともマレイ・ドラノフの本選で、良い成績を残して頂きたいものである。頑張れ、瀬尾+加藤組!

霧雨の舞う中、幸せな気分になって宵闇に出た拙者であった。


...... 2003年 11月 11日 の日記 ......
■[ NO. 46 ]
歪む視野
雨、のち曇り。相変わらず肌寒い陽気である。

体調はまずまずなのだが、気圧のせいか、眠くて困る。

ところで、皆様は「中心性漿液性網脈絡膜症」というのを御存知であろうか?

実は、今年に入ったあたりから、「視野が歪む」という症状がでていた。最初は気のせいかと思って、あるいはコンタクトレンズの調子が悪いのかと思って、放置していた拙者である。

ところが7月頃になって、症状がどんどん進んだ。普通に風景を見ている分にはそれほど支障はないのだが、パソコンの画面や階段、駅のプラットフォームなどを見ていると、直線が完全に歪んで見える。ちょっと酷いので、会社の診療所に定期的に来られている某大学の名誉教授の先生に見ていただいた。

そうしたら、即座に某大学に送られることになってしまった。診断の結果、拙者の病気は「中心性漿液性網脈絡膜症」というもので網膜に水が溜まり、いろいろな症状が出ることが分かった。

通常だと、片目だけに起こり、1〜2カ月で自然治癒する。ところが拙者の場合、両眼に同時に起こり、現在もどんどん症状が重くなってきた。放置しておくと、最悪の場合、失明に至る。

通常だと、酷くなったときには、レーザー照射による治療を施すのだが拙者の場合、患部の位置の関係で、レーザー治療ができない。レーザーを使った場合、失明に至る危険性が非常に高いとのこと。放っておいても失明、治療をしても失明の危険・・・ああ、いかにすべきか。

当面は、投薬で症状を抑えるしかない。幸い、投薬の効果が効いたのか、一時はだいぶ良くなった。

ところがである。またまたおかしくなった。右目は、もう何ともない。酷いのは左目だ。「直線がグニョグニョに見える」のである。両目で見ると、やっぱりグニャグニャになる。

ピヤノの楽譜を読む分には、疲れるけれど、さほど支障はない・・・といってももの凄く辛い。いくら5線の間隔が広くても、グニャグニャ曲がっていたのでは、読みづらくて仕方がない。

さらに問題は、パソコン画面やスコアを見たときだ。これを書いているパソコンのウインドウがグニャグニャに見える。拙者が仕事でやってるオンライン・ニュースサービスの配信制御画面など、もうメチャメチャだ。見ていてゲロが出そうになる。

楽譜で言うと、モーツアルトやベートーヴェンの大判スコアなら、何とか耐えられる。しかしリヒャルト・シュトラウスやマーラー、ストラヴィンスキーの3大バレエなどになると、もうアウト。楽譜全体がグンニャリ曲がって、パートが追えない。ミニチュア・スコアならともかく、大判のフルスコアだ。これがまったく判別できないのである。いや、判別できないというより、見ていると吐きそうになるのだ。皆様、数十段あるスコアがグニャグニャに見えたら、そもそも見る気が起こるだろうか? じっと見つめていたら、あなただって吐き気をもよおすに違いない。

別に拙者はプロの音楽家でないので、スコアが読めなくても困らない。でも、大好きなスコアリーディングができなくなるのは、本当に辛いことだ。ピヤノの楽譜を見るのが辛いのも、拙者の生きる楽しみを奪っている。もちろん本業にも支障が出つつある。

もう一度、歪みのない風景を見ることのできる日は来るのであろうか。


...... 2003年 11月 12日 の日記 ......
■[ NO. 47 ]
音になって手元に…
晴れ、のち曇り。

体調は最悪である。這うようにして出社した。本当は休みたかったのだが、大切な取材があり、出社せざるを得なかったのだ。1日中、目が回るようで、どうにも気分がよろしくない。眼の調子も最悪で、駅の階段を何度も踏み外しそうになった。転けなかったのが幸いである。

ただ、帰宅すると、とても良いことが拙者を待っていた。友人のMさんから「新作のCDです」と、スウエーデンのBIS社が年内に出すCDのサンプル盤を送って下さったのだ。

収録曲は、F.ディーリアスの管弦楽曲をP.ワーロックが連弾に編曲したものばかり。演奏者は小川典子さんとキャスリン・ストットさんだ。いずれも拙者が好きなピヤニストである。

新しいCDを、真っ先に拙者に送って下さったMさんのご厚意をとても嬉しく感じた。そして拙者には、それとは別の嬉しさがあった。実はこのCDの制作に、拙者もほんのわずかだけれど協力させていただいたからである。

このCDは、Mさんの企画によるものだ。ところがいくつかの楽譜が入手できなくて困っていらっしゃるとのこと。ほんの偶然のことに、それらの楽譜を入手していた拙者であった。もちろん拙者、それを喜んで提供した。2年前の冬、粉雪が降る日。Mさんご一家と拙者夫妻が東京・両国で「ちゃんこ鍋の会」を催した際に、楽譜をお渡しした。その楽譜が素晴らしいCDになって戻ってきたのである。

自分がお貸しした楽譜が音になって戻ってくる。これは本当に嬉しいことだ。ここ数年、友人の「Duo T&M」(豊岡正幸・智子ご夫妻)に手持ちの楽譜をお渡しして、何回もの演奏会で使って頂いた。そしてお二人は、いつも素敵な演奏を聴かせて下さっている。これだけでとても嬉しい拙者である。お二人には心から感謝している。

その上に今度はBIS社という著名レーベルからのCDで、小川さん、ストットさんというとても素敵なピヤニストに拙者が提供した楽譜を使って頂いた。そして、彼女たちの演奏、本当に素晴らしかった。これが嬉しくなくて何であろう。

ディーリアスの管弦楽曲の連弾版というと、異様に感じられる方もおられよう。しかし心配は無用である。小川さんとストットさんは、とてもピヤニスティックで爽やかに、ディーリアスを弾いていらっしゃる。

このCDは、まもなくBIS社からリリースされる。日本でもキングインターナショナルが直輸入盤を出すはずだ。是非多くの方にお聴き頂きたいCDである。

在野の研究者である拙者に、そうした喜びを与えて下さった友人のMさん、お渡しした楽譜を素敵な音にして下さった小川さんとストットさんに、深く感謝する次第である。

Mさん、小川さん、ストットさん、本当にありがとうございました。

生きていると、いろんな素敵なことがあるものだ。


...... 2003年 11月 13日 の日記 ......
■[ NO. 48 ]
鶏や山羊じゃない
晴れ、時々曇り。

拙者、来年3月にドイツ・ハノーヴァーで開かれる某展示会に行くことになった。まあ、それは良い。このところ会社の「経費節減」で出張が制限されていたので、こうして欧州に行けるのは楽しい。

ところがである。ホテルが全然取れないのだ。大規模な展示会で、世界中から人が集まるのは分かっていた。しかし、これほどとは。インターネット、電話、ファクシミリ・・・手持ちのあらゆる手段を使っても、宿は見つからなかった。英語のサイトはもちろん、不得手なドイツ語のサイトまで必死で探した拙者であったよ。だけどダメだ。

大体、拙者たちジャーナル屋の出張なんて、1カ月前に決まれば良い方だ。大抵は直前に決まる。それが来年3月の話だぜ。拙者に言わせれば、はるか未来の話だ。ところが、もう市内のホテルは満杯だ。つてを頼って、ホテルを抑えている某大手旅行会社に連絡をしたら、部屋はあった。しかし「お一人様、ご一泊6万円からでございます」。馬鹿野郎。1泊で6万円も出せるか! 拙者は6泊しようとしているのである。最低でも36万円だ。こんな決済、下りるはずがない。拙者だって、1人1泊4万円くらいまでは覚悟していたが。

今年の春、同じ展示会に行った奴が社内にいた。で、拙者は聞いたのだ。「君ら、どうやってホテルを取った?」。連中が言うには「ハノーヴァーは無理だったので、ブレーメンから毎日通いました」。雑誌ならともかく、ニュース・メディアで毎日往復200Kmも通えるか! ブレーメンだ? 拙者は鶏や山羊の音楽隊ではない。

個人旅行でブレーメンに行くのは楽しいだろう。でも宿泊だけして、ハノーヴァーまで毎日通うのはニュース・メディアとしては馬鹿である。

来週月曜日までに、宿が決まらなければ、出張を止めようと思っている拙者である。


...... 2003年 11月 14日 の日記 ......
■[ NO. 49 ]
忍び寄る「老い」
晴れ。冬がかすかに感じられる。

朝晩の出勤・帰宅で、ジャケット1枚ではちょっと寒いかな・・・と思う拙者である。でも、まだコートもマフラーもいらない。微妙な季節である。

先日、拙者を襲った「眼の病気」について書いた。本当に厄介なことである。しかし拙者の目は、それだけではない。3年ほど前からおかしくなり始めたのだが、最近ますます酷い。何と「老眼」である。

例えば拙者が、取材でどなたかとお話ししているとしよう。その方が資料を見せて下さった。そこでいきなり拙者が眼鏡をかける。当然、お相手の方は仰る。「かずみさん、眼が悪いのですか?」。「いいえ、老眼です」、と拙者。皆様、驚かれる。「えっ、その若さで老眼ですか???」。

そうなのだ。悲しいことながら老眼なのだ。確かに、皆様の仰られるように、年齢の割には早い。しかし現実なのだ。

拙者、実はド近眼である。裸眼視力は0.01だ。通常は、コンタクトレンズを入れている。それで矯正視力は1.0なのだ。ところが、3年ほど前から、近い物が見づらくなってきた。それがどんどん進む。最初は「グローヴ音楽事典」(拙者はビンボなので、持っているのは、ちっこいペーバーバックである)や辞書、欧文のちっこい文字を読むのが辛くなってきたことら始まった。それが今や、新聞や「週刊朝日」を読むのも、老眼鏡なしではできなくなった。

ピヤノの譜面立に置いた楽譜は、老眼鏡なしでも読める。もちろん、コンタクトレンズを入れてだが。しかし机上や手にとっての楽譜読みは、もはや老眼鏡なしではできない。

拙者のような者にも、老いが忍び寄ってきているのである。


...... 2003年 11月 15日 の日記 ......
■[ NO. 50 ]
朝に弱いと…
曇り、ときどき晴れ。夜になって雨。

ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団が来日している。14日、16日、17日は、東京・サントリーホールでの演奏会だ。15日は「お休み」の日なのだが、首席奏者の方々を中心とした、室内楽の演奏会が都内で催された。

この日、拙者も休日なので行きたかった。チケットは入手できる。だが、開演時刻を聞いて止めた。何と午前11時である。休日の午前11時に都内まで行く? とんでもない。こんな時刻など拙者、まだ夢現(ゆめうつつ)である。特別なことがない限り、休日(特に土曜日)の午前11時など、拙者、「ぱぐ」と一緒に布団の中で丸くなっているのである。

とても魅力的なコンサートなのに、どうしてこんな時刻に設定したのだ。主催者め。これでは拙者など「朝に弱い者」など、とても行けないではないか。そりゃ、会場近くに住んでいれば別だ。しかし会場まで1時間もかかる場所にいては、ちょっと辛い。せめて午後にして欲しかった拙者である。

それに、このコンサートにピヤノが入るのであれば、拙者、何が何でも「譜めくり」に立候補して演奏のお手伝いをさせて頂いたことであろう。これまでもウイーン・フィルの方の室内楽演奏会で、何度も譜めくりをさせて頂いたからである。譜めくりは基本的にリハーサルのときからお付き合いするので、「音楽がどうやって作られるのか」を間近に見ることができ、大変に勉強になるのである。しかし今回はピヤノは入らず。従って譜めくりもいらず、拙者も用なしだ。

夜は、都内某所で、今日の演奏者を囲んでの飲み会があった。これだけ出席してもよかったのだが、昼間の演奏会を聴かず、飲み会だけ出るのも気が引けた。以前、譜めくりとして演奏会のお手伝いをさせて頂いた方々とお喋りしたかったのだが。…というわけで、1日お家でおとなしくしていた拙者であった。

明日(16日)のコンサート、どのような演奏になるのだろうか。楽しみである。


...... 2003年 11月 16日 の日記 ......
■[ NO. 51 ]
幸福な午後
目の覚めるような快晴。

そうした午後のひととき、サントリーホールへ、
クリスティアン・ティーレマン指揮、ウイーンフィルハーモニー管弦楽団の演奏会に参上した拙者たちであった。

ウイーンフィル。1度は生で聴きたい楽団である。CDは我が連弾庵に山積み(と言うほどのこともないが)になっているが、1度も生演奏に接する機会がなかったのである。前回ウイーンを訪問したときも、滞在中にこの楽団の演奏会があったのだが、チケットがまったく取れなかった。事前準備がなってなかったので、当たり前なのだが。

そして本日、念願かなって生演奏に接することと相成った。

拙者たちが取得できたのは、2階Cブロック5列目18〜19番。ステージに向かって、丁度真ん中。ステージからはちょっと遠いが、贅沢は言っていられない。まずまずの場所だ。

最初に演奏の特徴を述べよう。ティーレマン氏は、感情表現の幅がとても広く、そして非常に繊細な曲作りをする。繊細と言っても決して神経質にはならない。楽団の特性もあるのだろうが、柔らかな繊細さだ。全身を使って、その感情表現を楽団から引き出そうとする。そしてその指示に、楽団が鋭敏に反応するのだ。例えて言えば、無限の色を持つパレットの中から指揮者が色を選択し、楽団がそれを聴衆に示す。この反応が素晴らしい。さらに言えば、強烈な個性派が多いと言われるウイーンフィル---拙者も何回か、それを肌で実感する機会があった---を一糸乱れぬ演奏で統率するティーレマン氏。さすがである。そして曲全体で見ると、とてもスケールの大きい演奏をするのだ。

本日の曲目は以下の通り。
・ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
・R.シュトラウス「英雄の生涯」
そしてアンコールに
・R.シュトラウス「カプリチオ」から「月光の音楽」

最初の「田園」。冒頭から、まるで絹の布地に触れるような、柔らかな音。ふわり、そしてさらりとした肌触り。そして完璧なアンサンブル。「これまで(生で)聴いてきた“田園”は、いったいなんだったんだろう?」と思った拙者であった。どこまでも柔らかく、心の底に響く音。心地よさの極致。あまりにも心地よいので、第2楽章で、思わず睡魔に襲われた拙者であった。誤解のないように言おう。演奏がつまらなくて眠気に襲われたのではない。心地よすぎて、からだがふんわりとして、思わず「くたっ」となってしまったのである。

休憩後の「英雄の生涯」。これは冒頭から、管弦楽がフル回転。低音からわき上がる、あの勇壮な主題。もうその時点で、涙腺の弱い拙者は、目頭が熱くなった。複雑なスコアを「ほら、こんなに素敵な音楽なんだよ」と、いともやすやすと、そしていかにも気軽に聴かせてくれるティーレマン氏とウイーンフィル。木管のソロの掛け合い、華やかに響く金管郡、そして絶妙のコンサート・マスター。どんなピアニシモでも、ステージから遠い拙者の耳に清冽に響き、そして、どんなに凄いフォルテシモでも決して音が割れず、柔らかなアンサンブルで響く。まるで壮大な夕映えを見ているような光景だ。

演奏が終わったあとは、もう熱狂的な拍手と大歓声である。拙者も「うおぉぉぉぉっ!」。何度も舞台に呼び出されるティーレマン氏。それを鎮めて振り始めた「月光の音楽」は、もう絶妙の美であった。フル回転していた管弦楽が、安息の音を奏でるのである。あまりの美しさに、拙者の視野は滲んだ。

アンコールが終わっても、延々と続く拍手。管弦楽が舞台から引き上げても拍手は止まらない。そして誰もいなくなった舞台に、ティーレマン氏登場。客席は全員立ち上がって猛烈な拍手と大歓声である。それに応える嬉しそうなティーレマン氏。

幸せな演奏会だった。

ただひとつ、猛烈に頭にきたことがある。「英雄の生涯」で、静かに曲が終わって、まだ残響が響いているというのに、バチバチと拍手を始めた大馬鹿者がいたことだ。拙者も含め、大半の聴衆は、あの柔らかな残響を楽しんでいたのだ。それをぶち壊してくれた邪悪な聴衆がいた。こいつらだけは許せない。きっとこの連中、良い死に方はしないであろう。

終演時間が早かったので、自宅の最寄り駅まで帰ってきて、行きつけの鮨屋へ直行。旨い鮨を頂きながら、演奏会の余韻に浸りその“残映”を心の中で蘇らせていた。

幸福な午後だった。


...... 2003年 11月 17日 の日記 ......
■[ NO. 52 ]
幸せな遭遇
晴れ。東京ではこの冬初めての木枯らしが吹く。

月曜日だ。例によってからだは重い。でも仕事が待っている。出社せねばならぬ。行かねばならぬ。這々の体で出社した。

多くの皆様もそうであろうが、拙者も複数のメール・アドレスを持っている。会社専用を除けば、どのアドレスも世界中、どこからでも見える。拙者、定期的にそれらをチェックしているのである。

と、そのうち最も主要なアドレスに、見たこともないアドレスからメールが入った。そうしたことは、毎日だ。ほとんど毎日のように、未知の方からのメールを頂く。それには慣れている。しかし、妙な予感がした。恐る恐る開いてみると・・・。それは拙者を幸せな気分にしてくれるメールであった。これについては、多くを語りたくない。でも、「とても幸せなメールを受け取った」ことだけ書いておこう。人生、捨てた物ではないのである。

午後、仕事がらみで帝国ホテルのロビーを歩いていたら、今度は作家の高嶋哲夫先生とばったりお目にかかった。双方で「おおぉ」。「いやぁ、偶然って、あるのですね」と高嶋先生。先生はご自身初の経済サスペンス小説「虚構金融」(実業之日本社)を出版されたばかり。これは読まねばならぬ。お連れの方がいらしたので「今度、またゆっくり呑みましょうね」とお約束してお別れした拙者であった。

久々の遭遇が2件。幸せな気分である。


...... 2003年 11月 18日 の日記 ......
■[ NO. 53 ]
鬼に笑われる
晴れ、のち曇り。

朝から夕方まで、取材で都内を回っていた。最後の原稿は、取材先からオフィスに戻って書いても自宅に戻って書いてもそれほど時間的には変わらないので、取材先から自宅に向かうことにした。拙者の仕事など、インターネットさえあれば、どこでも出来てしまう。これが良いことか悪いことが、よくわからない。まあ、とにかく仕事はやった。「皆様放送局」とA新聞、R通信には時間的に負けたが、それなりの内容で記事をアップ。悠々と仕事を終えた拙者であった。

さて、そろそろ来年のコンサート情報が入ってくる時期だ。「来年のことを言うと鬼が笑う」と言うが、どうぞ笑って頂きたい。残念ながら、ピヤノ・デュオに関しては、まだ1件も入っていない。アルゲリッチさまも東京にはいらっしゃらないようだ。これをお読みの皆様、どしどし御存知のピヤノ・デュオ情報をお送り頂きたい。お願い申し上げる次第である。

今のところ把握しているのは、主にオーケストラのコンサートだ。拙者の注目は以下の通り。

(1)デイヴィス:ロンドン交響楽団(3月)
(2)マズア:フランス国立管弦楽団(4月)
(3)フェドセーエフ:モスクワ放送交響楽団(5月)
(4)ハイティンク:ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(5月)
(5)ゲルギエフ:ロッテルダム・フィルハーモニー(5月)
(6)マゼール:ニューヨーク・フィル(10月)
(7)ヤンソンス:ロイヤル・コンセルトヘボウ(11月)
(8)ゲルギエフ:ウイーン・フィルハーモニー(11月)

曲目が分かっているのは(1)と(3)のみ。(1)は東京で3回コンサートがあるが、どれも聴き物だ。3/12は、「ストラヴィンスキー:火の鳥(1910年版)」が入るし、3/16と3/17は、内田光子さん独奏のモーツアルトが入る。(3)では5/18が注目である。「ラフマニノフ:交響曲第2番」がメインだ。1度、ロシヤの楽団で、この曲を聴いてみたいと思っている拙者である。

曲目は分からないが、早くも“激戦”が予想されるのが(6)と(8)。特に(8)は、今年以上のチケット大争奪戦になるのではないだろうか。妻は先日聴いたウイーン・フィルをいたく気に入っていたし、ゲルギエフという指揮者は絶対に生で聴きたいとのたもうている。ああ、もう、この大激戦に参加することになるのは確実であろう。

もちろん、予算と時間の関係で、全部行けるわけはない。でも、このうちいくつかは行こうと画策している拙者である。残念ながら、ブーレーズさまは御来日にならないようだ。

ピヤニストに関しては、あまりよく把握していない。“大物”ではポリーニが5月に来るのだが、このピヤニスト、1度聴いて懲りた。もう2度と行くまい。むしろ、ダレ切った演奏を聴かせる“大物”よりも、胸がワクワクするようなピヤニストに期待したい。特にデュオを中心として。

さあ、これをお読みの皆様、是非是非、コンサート情報をお寄せ頂きたいものである。重ねてお願い申し上げる次第である。


...... 2003年 11月 19日 の日記 ......
■[ NO. 54 ]
久々に沈没
曇り。やや冷え込む。

夜まで忙しかった上に、溜まったメールの返信(折角メールを下さった皆様、遅くなってごめんなさい)をしていたら、いきなり疲労感が…。久々に沈没。


...... 2003年 11月 20日 の日記 ......
■[ NO. 55 ]
沈没したサーバー
雨。

拙者のサイトを管理しているシステムに大規模な障害が発生した。アクセスはもちろんのこと、データの更新すらできない。

原因は、サーバーのディスクが沈没したこと。当初プロバイダ側は、ちょっとしたメンテナンスで復旧すると考えたらしい。ところが、世の中、そうは甘くない。結局ディスクの交換になってしまったようだ。おかげで24時間以上、拙者のサイトは閲覧できなくなった。この日記も更新できない。いや、日記は別のサーバーに置いてあるので、更新はできるのだが、画像データは全部「home.att.ne.jp」のサーバーに置いてあるので、まともに表示できない。

折角いらして下さった方には、本当に申し訳ない次第である。お詫び申し上げます。


...... 2003年 11月 21日 の日記 ......
■[ NO. 56 ]
沈没・・・ああ情けない
晴れ

あれやこれやで、何だか1日忙しかった。まあ、このご時世である。忙しいのも幸せなのかも知れない。

仕事が終わったのが午前2時。こちらで書きたいテーマはたくさんあるのだが、今日はもう、沈没だ。


...... 2003年 11月 22日 の日記 ......
■[ NO. 57 ]
向かうところは・・・
晴れ、ときどき曇り。

連日、イラクでの爆弾テロのニュースが入る。そして、昨日今日は、トルコでの連続爆弾テロのニュースだ。どうして罪のない人たちまでテロの犠牲になるのだ。ロイターの端末を目の前にしていると、そんなニュースばかりが入ってくる。悲しい。世界情勢は悪い方向に向かって流れているように思える。

疲れたので、昼近くまで「ぱぐ」と寝ていた。

午後は、ぱぐたちの散歩と、ピヤノの練習だ。ピヤノは、年末に拙者が唯一弾く演奏会(といっても、半分飲み会なのだが)に向けてのもの。今年はリハビリ・モードなので、フローラン・シュミットの小品を弾く。拙者の出来が、あまりにも良くないので、練習中に何度も妻からどつかれた。もっとも、これだけ不味いと妻でなくてもどくつくであろう。一緒に弾いて下さるだけでも幸せと思わなければならぬ。妻でなければ、即座に見捨てられていたであろう。有り難きことである。

妻は、「もっとまともなデュオをしたい」と、目下、M教授とレッスンに励んでいる。曲はシューベルト作曲・シェーンベルク編曲の「ロザムンデ」だ。M教授のアンサンブル能力は抜群で、その指導に妻も満足している。慶賀の至りである。

M教授、ありがとうございます。


...... 2003年 11月 23日 の日記 ......
■[ NO. 58 ]
幸せなごご
曇り、時々晴れ。

ついにイラクでは民間機がテロの対象になった。もう、滅茶苦茶もいいところである。イスタンブールでは、またテロがあった。グルジア共和国では、内戦でも勃発しそうな雰囲気だ。ニュースを聞くたびに、イヤな気分になる。

ただ、個人的には、嬉しい事も多々ある。そのひとつが、先日本欄で書いた拙者の「眼」のことだ。予想外に大勢の方から、励ましのメールを頂戴した。本当に嬉しい限りである。メールを下さった皆様、本当にありがとうございました。拙者、仮に片目を失っても、文筆業と音楽の面で、そして人生で誠実に生きていく所存であります。




今日の午後、不肖かずみは、諸般の事情があって単独行動だ。拙者の休日は、原則夫婦で同一行動なのだが、最近はさまざまな事情があって単独行動が増えた。いいことか、よくないことか…。拙者には分からぬ。とにかく単独行動をした拙者であった。




向かった先は、お茶の水の「カザルスホール」。ここで中井恒仁氏+武田美和子氏によるピヤノ・デュオ・リサイタルがあるので、駆けつけた次第だ。曲目は以下の通り。

・モーツアルト=ブゾーニ:「魔笛」序曲(2台)
・ツエルニー:連弾の為のソナタ Op.10
・メシアン:「アーメンの幻影」より
・ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲

アンコールは
・ラフマニノフ:組曲第二番から「ワルツ」
・ストラヴィンスキ:タンゴ
・エルガー:愛の挨拶(連弾)

例によって結論から言おう。

中井+武田組。現在の日本人デュオとして、最高水準にある。掛け値なしのトップレヴェルだ。個々のテクニックも抜群な上に、アンサンブルも素晴らしい。海外でも通用する、数少ない国産デュオといっても過言ではあるまい。以前にもこのデュオを聴いて感服したが、今回は一層成長したお二人の演奏を拝聴して、感激を新たにした拙者であった。

平素からたくさんの演奏を実演やCDで聴いている拙者であるが、ここまで素晴らしい演奏には、なかなか出会えない。真に素晴らしい演奏会であったことをご報告しよう。

どの演奏にも言えることだが、両者のテクニックがダメなら、演奏はそこでお終いだ。ところがどうだろう。どちらも抜群のテクニックを駆使して曲を自分たちのものにしている。そして、絶妙とも言えるアンサンブルだ。よくもこれだけ呼吸があうものだと感服する。

呼吸が合うのは当たり前だって? とんでもない。眞の意味で「呼吸が合う」とは、アーティクレーション、リズム、そしてダイナミクスが完璧に合うことを意味する。そして、2人の奏者が「対話」をしながら、演奏を押し進めて行くとことにある。

しかもこのデュオ、作品に関して、徹底的に掘り下げて研究し、その成果を思う存分、舞台で発揮している。その掘り下げ方は、並大抵のものではない。それが、確固たるテクニックの上に成立しているのだ。

過日聴いた、アルゲリッチ様+フレイレのデュオが、極限までに達した巨匠の会話であるならば、中井+武田組は、はつらつとした若い才能の飛翔である。こうした対比が許されるのかって? 拙者はこの素晴らしいデュオなら、十分に比較の対象になると考えている。それほどまでに、完成度の高い、眼を見張るようなデュオである。

個々の演奏に言及していたら、数百行になってしまうので、あえて避ける。どの演奏も国際水準をはるかに超えるものであったが---ブラームスでちょっとばかり「ひやり」とするシーンはあったが−−−とりわけツエルニーは素晴らしかった。

あの連弾は、本当に両方の信頼関係と呼吸を合わせることがなければ---そして愛し合う心がなければ---できない演奏だった。ご自身でやってみれば、よく分かるよ、このツエルニーの作品10のソナタ。どれほど、コラボレーションが重要かが。ちょっとだけ言えば、延々と続くプリモとセコンダの大きな交差がある。プリモの左手とセコンダの左手が「伴奏」、セコンダの右手が旋律、プリモの右手が装飾。そしてセコンダの右手が、自然とプリモの右手に受け渡される。これを完璧にできるデュオなんて、日本には、いや世界でもほとんどいないであろう。

その他の曲も、細部まで入念なアプローチを試み、そしてスケールの大きい演奏を聴かせて下さった。これほどのデュオがいる。これは日本が世界に誇ってもよいことなのではないだろうか。不肖かずみ、そのように思った次第である。

このデュオ、今でも素晴らしいが、このまま成長していったら、大化けに化けるぞ。凄いことになる。ちなみに以前、拙者の友人のピアニストが言った。「あの2人は、本当の意味で凄いんだよ」と。滅多に人を誉めない友人が言ったのだ。拙者は、それを肌で感じている。中井+武田組。本当に素晴らしいデュオである。

余談だが、ステージマナーも立派だ。そしてステージの雰囲気が実に爽やかなのである。とても素敵なお二人である。

このお二人に接した拙者、幸せな午後だった。


...... 2003年 11月 24日 の日記 ......
■[ NO. 59 ]
内面の表現
曇り。肌寒い1日。

寒いので、時々仕事をしながら、ぱぐぱぐして過ごす。時折、ピヤノを弾く。連弾の練習もするが、例によって、心優しい妻にどつかれる。プリモとセコンダの手がぶつかるあたりで、拙者の手が邪魔になるのだそうな。しかし、手が邪魔だとは言え、何もぶたなくてもいいと思う。「あなたの手の位置が、演奏の支障になるの。もう少し早めに鍵盤から離して下さったら良いわ」と言えば良いだけである。昨日、見事な演奏を聴かせて下さった中井さん+武田さん組など、どのような連弾練習をしていらっしゃるのであろうか。興味は尽きない。

ところで、「音楽現代」(芸術現代社)の12月号にピヤニストのアルド・チッコリーニ氏のインタビューが出ていて、氏がとても示唆に富む発言をしておられた。普通ならばこの種の雑誌は買わないので読まないのだが(あまりに文章が下手くそなので)、妻が買ってきたのである。このチッコリーニ氏のインタビューも、下手くそな文章で纏められていたのだが、はっとする発言があった。以下に引用させていただこう。




今の若い世代に足りないのは「表現力」です。12時間練習すればすばらしいテクニックをつかむ事はできる。けれどもその12時間の練習で、自分にしかできない表現を養って行くことはできない。自分の内面を成長させて行くことでしか、表現力は養われないのです。

「インティムズモ」という言葉がありますね。イタリア語で「内面の奥深いこと」を意味します。自分の心の奥底で、しみじみ満足しながら、1つ1つの音を探し、音楽を作り上げていく。自らの内面を深く探りつつ、音楽をやっていかないと、自分だけの表現はできない。例えば、バッハの曲をきれいに弾くことなら、練習すればできる。ただし、それを自分のものとし、自分だけの表現ができるかどうか。それがそこでその人が芸術家か、そうでないかの違いが出るのだと思います。




演奏に関して、実に示唆に富む発言だ。最近の若手ピヤニストの大半は、聴いてみたいとも思わない。ちょっと録音を聴くだけで、もうたくさん。日本でも人気のあるE.K.、A.G、B.Bなど、単に指の回るジャリタレである。本当に音楽をしっかり聴こうとする側から見ると、クズに過ぎない。

なぜクズなのか。それはチッコリーニ氏の発言が如実に示している。ジャリタレどもは、「音楽の内面」に踏み込んでいないのだ。だから、指は回ったとしても音楽として浅いので、聴く気がおこらないのだ。

演奏会に行く。それは「音楽」を聴きに行くのだ。サーカスを観に行くのではない。そりゃ、浅はかな連中はKくんだ、Gくんだと騒ぐだろう。興行的に成功していれば、まあそれはそれでいいのかも知れない。本当の意味で音楽を聴こうとする者から見れば、あまりに馬鹿らしいと思っても。

でも、拙者のように、深い音楽性を求め演奏を聴こうとするものは、置いてけぼりになるのであろうか。何とも悲しい潮流だ。

しかし、拙者は希望を捨てない。きっと若手でも、チッコリーニ氏の言うような、素晴らしい人材が出てくることを。昨日聴いた、中井+武田組など、その良い例ではないであろうか。


...... 2003年 11月 25日 の日記 ......
■[ NO. 60 ]
あえなく沈没
雨。一日中降り続く。

そろそろ12月以降の「演奏会情報」もアップしたいし、メールのお返事も書きたい。だけど、まだまだ仕事が終わらない。

メールを下さった皆様、ごめんなさい。順番にお返事しますので、しばしお待ちを。

でも、決して拙者にメールを下さること、ご遠慮なさらないで。メールを頂くのは嬉しいし、お返事書くのもとても楽しいことなので。

さて、仕事に戻ることにする。恐らく今日は、仕事を終えたところで沈没であろう。ちょっと情けない次第である。

日本は午前0時を回ったところだ。


...... 2003年 11月 26日 の日記 ......
■[ NO. 61 ]
悲しいけれど体力が…
晴れ。朝と夜は冷え込む。
通勤経路にある桜並木も、もう真っ赤だ。自転車で走っていると、葉っぱが落ちてきてバシバシからだに当たる。

書きたいことはたくさんあるのだが、もうダウン寸前だ。ようやく仕事を終え、「演奏会情報」の更新をするのがやっと。でも、このご時世だ。仕事があるのは、とても良いことなのである。

1日が30時間くらいあったら、あるいはもっと拙者に体力と気力があったら・・・と思うこのごろである。5年くらい前だったら、1日の平均睡眠時間が3時間くらいで、2週間続けても大丈夫だったのに、もう、そんなことはできない。

しかし、ここまでダウンするのは、年齢の割には早いような気がして、情けなく感じる。

あえなく、今夜も沈没である。


...... 2003年 11月 27日 の日記 ......
■[ NO. 62 ]
街のみんなで、素敵なピアノ・デュオ
曇り。朝晩は底冷えがする。

今日の仕事がようやく終わった。日本時間午前1時。ほっとする時間である。「書類上」で1カ月の時間外労働が90時間を超えると、さすがにちょっと苦しい。疲労感を覚える。しかし昨日も書いたが、こうして仕事があるのは、何とも有り難いことである。拙者に仕事を与え、お給料を下さる(といっても「残業代」はない)会社は、かけがえのない存在だ。もっとも仕事に誇りとやりがいがなければ、放り出してしまうかもしれないが。その点で、拙者は恵まれていると言えよう。

拙者、眠る前には、必ずアルコールを摂取する。よく「仕事が終わって眠る前に、アルコール呑みながら、音楽を聴いたらどう?」と言われる。とんでもない! そんなことをしたら、回転が収まりつつある「頭のエンジン」が、再びフル回転してしまうではないか! 拙者にとって音楽とは、安らぎや楽しみを与えてくれる存在であっても、頭を休めるものではないのだ。この件に関しては、別途書きたいと思っている。




昨日「本サイト」でも書いたが、茨城県日立市の「ピアノデュオコンサート」が成功裏に終わったとのことである。とても嬉しく感じた拙者だ。

市民のボランティアの方と自治体の方とが一緒になって、ピアノ・デュオのコンサートを10年以上に渡って続けられていらっしゃるのだ。実行委員会の皆様のお話を伺って、裏方のご苦労は並大抵でないことが分かっている。本当に大変なご努力だ。

それなのに、委員会の皆様は「この街で、ピアノ・デュオの演奏会を毎年続けよう」と、年に1回のコンサートのために、日夜、走り回っていらっしゃる。凄いのは、1つのコンセプトの元に、それを何年にも渡って続けようということだ。今年は「リニューアル」して新たな試みを打ち出したが、根本にある精神はずっと引き継がれている。

これが、一般にも大受けするような「大企画」だったらともかく、「ピアノ・デュオ」という、とても地味で限定された分野での企画だ。しかも公開レッスンあり、コンサートありと、内容がとても充実している。この継続性と内容の充実には注目していいだろう。そして街ぐるみでのピアノ・デュオ・フェスティバルなのだ。世界的に見ても、大変に立派なことである。なにより市民参加型の催しというのが良い。

加えて今年は「プリムローズ・マジック」というベテラン・デュオをゲストに迎え、演奏会を締めた。また、これまでのように東京芸術大学の角野裕先生や茨城女子短期大学の松永晴紀先生といった、ピアノ・デュオへの造形が大変に深い先生方をも巻き込んでの催しとなったのも、演奏会や公開レッスンを成立させる上でも素晴らしいことである。

しかも、どこぞであるように大企業の協賛を得るわけでなく、市民の手で作り上げたピアノ・デュオのコンサートなのである。この催しには、心から拍手を送りたい。拙者たちも微力ながら、この素敵な催しに参加させて頂いているのを嬉しく思っている次第である。

日立の皆さん、来年も素敵な企画を催して下さい。陰ながら応援しています。


...... 2003年 11月 28日 の日記 ......
■[ NO. 63 ]
「音」を聴く
曇り。やや冷え込む。

疲労がからだに堪える。オフィスへ行くのに乗換駅で電車を乗り過ごしてしまい、大変な時間のロス。元々ぎりぎりのタイミングで動いていたので、オフィスには30分弱しかいられなくなってしまった。その間にメールを200通読み(殆どが「山羊さん郵便」状態)、必要なメールに返信し、企画書を1つ書いて出し、早めのお昼ご飯を食べ(おにぎりが2つ)、必要な書類をプリントアウトし、便所に寄って、再びオフィスを飛び出す。

向かった先は日本IBMの大和事業所。ここではいろんなことをやっているが、今回はノートパソコン「ThinkPad」の開発施設を報道関係者に公開するというので行って来た。拙者、工場やら研究施設やらを見るのが大好きだ。なぜか分からぬが、ワクワクするのである。今回は新製品の耐久試験室や騒音測定室などを見せて頂いた。なかなか面白い。

“余興”としてIBMは、ThinkPadの世界での累計出荷台数が2000万台を超えたことを記念して作った特別モデル「ThinkPad 20M」を披露した。

報道関係者に披露された、「ThinkPad 20M」


IBMのThikPadデザインチームが設計し、某有名洋菓子店が作った、ThinkPad型のチョコレートケーキである。実に良くできているので、一同大爆笑。写真撮影とセレモニーの後、「ThinkPad 20M」は解体され、拙者たちのおなかに収まった。

楽しい催しであったが、疲れた。何せ大和は遠い。東急田園都市線の終点なのだ--関東以外にお住まいの方、とにかく遠いところのであるよ。オフィスから1時間半、拙者の家から2時間半は最低でもかかる。ヘトヘトになって帰宅した拙者であった。




昨日、拙者にとって音楽とは、安らぎや楽しみを与えてくれる存在であっても、頭を休めるものではないのだ---ということを書いた。そう、どんな素晴らしい音楽、演奏であっても、気分を楽にしてくれる存在ではないのだ。ひょっとしたら「安らぎ」も与えてはくれていないのかも知れない。近頃はやりの「癒し」などには、とてもではないがならない。

素晴らしい音楽を聴く。それは喜びだ。演奏を聴いて感動し「生きていて、よかった」と思える瞬間もある。だからこそ演奏会に行き、CDを購入するのである。しかし、聴き終わると、それがどんな演奏であれ、もの凄い疲労感を覚えることも、また事実なのだ。大変に疲れる。勤務の後に都内で演奏会など行ったら、大抵の場合、あまりの疲れに途中から、あるいはホールから直接家までタクシーでないと帰り着かないほどだ。素敵な演奏ならまだ救われるが、酷い演奏だと疲れた上に、心がズタズタになる。そうなると、もうボロボロだ。

なぜ、こうしたことになるのか、自分でもよく分からない。ただひとつ言えるのは、音楽を聴き出すと、全部の神経がそちらに行ってしまうことだ。全身が耳になる、という表現が妥当かも知れない。そして、演奏の細部まで、演奏者がどのように表現しようとしているのか、演奏者は曲をどのようにして再構築しようとしているのかを必死になって聴き取ろうと、頭はフル回転になる。

コンサートの場合だと、眼も動員する。演奏者の表情やピヤニストで鍵盤が見える場合にはタッチを、足下が見える場合にはペダリングを、耳からきこえるものと合わせて、じっくり観察する。それができないような演奏者から離れた席にいれば、その演奏を何とかして全身で受け止めようとする。

CDだってそう。とにかく「聴き流す」ということはできない。演奏が耳に入ると、完全に神経はそちらにいってしまう。その場合だって、頭は自然にフル回転となる。楽譜が手元にあろうがなかろうが、関係ない。

まあ、それでも自発的に音楽を聴こうとする場合には、それでもいい。そうでないときは、はっきり言って拷問にあっているみたいなものである。無理矢理音楽に神経を向かわせることになるからだ。

妻がピヤノの練習をしている。これはまだ大丈夫だ。「配偶者の練習」ということが頭にあるので、神経が許容する。もちろん、しっかり聴いてしまうことにはなるが。また、街角でストリート・ミュージシャンが演奏していたり、街を歩いていて楽隊のパレードに逢った時なども、一種の「都市の雑音」として許容できよう。

とにかく拙者にとって音楽というものは、「心の幸せ」のために必要不可欠であっても、決して精神の解放にも、頭やからだの疲れを取ることにもならないのである。

そんな拙者にとって、いかんともしがたい大敵がある。「BGM」という奴だ。こいつだけは絶対に許せない。ちょっと長くなったので、この話題は「続き」にしよう。


...... 2003年 11月 29日 の日記 ......
■[ NO. 64 ]
神経を脅かす物
雨。強くなったり、弱くなったり。季節はずれの台風まで近づいている。

雨が降っているので、どこへも出かける気にならない。パグたちも、散歩に出たがらない。こういう日は、ぱぐぱぐして過ごすのが一番だ。ただ、多少の気力があったので、ほんの少しだけピヤノに向かう。妻と連弾して遊んだ。そしてまた、ぱぐぱぐする。ほとんど生産性のない1日だった。




昨日の話の続きをしよう。拙者の大敵「BGM」だ。拙者、自分が必要とする---すなわち、音楽を楽しもうとするとき以外に流れてくる音楽は、少なくとも、耳に余計な疲労を与える。もの凄い疲労である。もっと言えば、神経を逆撫でするものでしかない。残念ながら、街のあちこちで、この「BGM」とやらが流れている。こんなものが流れ続けていたら、耳の休まる暇がない。余計な疲労が蓄積するばかりだ。

最悪なのが、飲食をしているときに流れてくる奴だ。これでは、美味しく飲食などできない。神経を逆撫でされながら、美味しい飲食などできるわけがないではないか。もっとも、本当に旨いものを出すお店は、BGMなんか流していないのだが。ちょっとお洒落で「いいな」と思ったお店でも、BGMなど流していたら、もう2度と行かない。そもそも何で、こんな「騒音」を流す必要があるのだろう。拙者には、まったく理解できない。

誤解のないように言うが、別に美味しい飲食に音楽があっては良くない、というのではない。今はなくなってしまったが、東京・赤坂に拙者の行きつけのドイツ料理店があった。そこでは、生のバンドが演奏していた。これはこれで楽しいのである。「そういう音楽のある場所」であると認識して行くからだ。そして、バンドが演奏していないときは、音楽など、一切流さない。だから、音楽を楽しむ一方で、落ち着いて飲食や会話ができるのである。ドイツやオーストリアなんかの酒場は、みんなそうだ。「音楽タイム」と「無音の時間」がきっちり別れている。この場合、音楽は決してBGMではない。

ロンドン名物の「ハードロックカフェ」。ハイドパーク・コーナーにある、有名な飲み屋兼飯屋だ。ここはのべつまくなしに、ロックを流し続けている。ロックを聴きながら、ノリノリになって飲食して、お喋りをしようという趣向だ。それはそれで良い。なかなか楽しいものだ。これも決してBGMではない。そうした音環境で飲食したくなければ、この店に行かなければいいだけである。音楽を流していない店など、いくらでもある---というより、そちらの方が多い。

とにかく、聴きたくない音楽は、一切耳に入れたくない。耳を疲労させ神経を逆撫でする、害毒以外のなにものでもないものだからだ。どなたか、世の中からBGMを抹殺していただきたい。しかし不思議だ。こんなにBGMが溢れていて、世間の皆様は耳が疲れないのだろうか?


...... 2003年 11月 30日 の日記 ......
■[ NO. 65 ]
香を聴く
雨。ときどき曇り。

何となく蒸している。季節はずれの台風が近づいて、南からの風が吹き込んでいるからかも知れない。

去年のこの時期は、もっと寒かった。もう完全に初冬だった。去年の12月2日には「スッポン鍋」を頂きに行っているのだから、よほど寒かったはずである。今年は鍋物を頂こうという気は、まだ起きない。まあ、天気の変わりやすい時期だから、1週間もしたら「スッポンか河豚でも食べに行こうか」ということにもなりかねないが。

そんな天気だったので、どこへも出かけられない。午後になって雨が上がったら、妻が「さあ、お掃除だ!」と、それまで弾いていたピヤノを止めて、いきなり掃除を始めた。そして、「あなたも、部屋くらい掃除したら?」。

そう、拙者の部屋は全然片づけも掃除もしていなかったので、寝室・書斎ともかなり悲惨な状態になっていた。寝室は妻が時折掃除をしてくれているので、まだましだが、問題は書斎だ。一応床は見えるのだが、さまざまなものが点在していて非常に危ない。埃も積もっている。拙者が使っている机など、メイン・デスクは150×90cmあるのだが、有効面積は40×40cmだ。サブ・デスクも150×50cmあるのだが、有効面積はゼロである。どれほど凄まじい状況か、皆様にもお分かりいただけるであろう。それを一斉に片づけたのである。

出るわ出るわ。いらない書類が山ほど。そこからなくなったと思った楽譜やらCDやら書類やらがゴッソリ。・・・もう後は書きたくない。ともかく綺麗に片づいた・・・とだけ申しておこう。寝室にいる縫いぐるみども---拙者はティディ・ベアを中心に、縫いぐるみのコレクションもある---ガラスのケースに入っていなかった連中は、みんな埃を叩いてやった。綺麗になった部屋と縫いぐるみを見て、久々に爽やかな気分になった拙者であった。




さて、爽やかになった部屋で、何をしよう? 拙者がまずやったのは、「香を聴く」ことである。何を隠そう(隠していないか)拙者は、お香だの香水だの、香りを楽しむのが大好きである。特に、お香は好きだ。何種類か用意していて、その日の気分に合ったお香を焚く。なかなか至福な時である。

拙者、20年以上、ドイツ製の「香焚き人形」を愛用していた。胴体の中にお香を入れて焚くと、口から煙を吐く木製の人形だ。

香炉



なかなか風情のある人形で、拙者も可愛がっているのだが、欠点が1つある。この香炉で焚くお香は、円錐形/角錐型か円筒形に限られるのだ。棒状、すなわち線香(あるいは、その太い物)には対応できない。

ある日、友人のピヤニストのN.H女史が、拙者がお香が好きと聞いて、おみやげを持って来て下さった。それが棒状のお香なのだが、普通のお線香よりはるかに太い。スタンダードの線香口径(そんなものがあるのだろうか?!)のお香を立てるのは持っているが、N.H女史から頂いた口径のお香は立てられない。さあ、どうしよう?

そこで拙者、銀座の鳩居堂に、香炉を探しに行った。そこで見つけたのが、「万能クマさん香炉」である。

香炉



これならば、日本国内で販売されている、ほとんど全てのお香に対応できる。なかなかのスグレモノだ。目下、拙者の部屋では、お人形さんとクマさんが、香を聴くのに大活躍している。

お香、なかなか良いですよ。皆様も試してみては如何でしょう? 心が安らぎますよ。