東京は、爽やかな秋晴れ。しかし体調不良で、からだはちっとも爽やかではない。
今日は、このところある月刊誌にほぼ毎号書いているエッセイの入稿。比較的大手の企業経営者や幹部社員のための雑誌である。拙者に課せられているのは「1ページで完結するIT(情報技術)のトレンドに関するエッセイ。ITに詳しくない人でも気楽に読め、読んでためになる記事」である。簡単なようで、意外と厄介だ。難しいことを易しく表現し、しかも読んでためにならなければいけない…と言うのだ。まあ、この分量なら30分もあれば書ける。だけど事前の準備が大変だ。内容も相当に練らなければならない。
拙者、それでも何号かやってきた。このところ、何だか段々説教臭くなってきたようで、自分でも困っている。何とかしないと、せっかく付いた読者が離れてしまう。うーん、どうしよう。ちなみに、この原稿料は、これまでタダだった。「同じ部局の出版物だ」という理由で。あんまりだ。ようやく今回から原稿料が出ることになった。ただし1300字で、たった1万円。安い。でも拙者にとってみると、もらえるだけでも有り難い。
さて、今日のお題は「迫り来る恐怖」の第2弾だ。
まず前提となるのが、マーラーの交響曲である。第1番を除いて、みんな長い。さらに第2番を除くと、途中休憩なるものは設定されていないのが普通だ。拙者はマーラーが大好きだ。しかし「長くて休憩がない」というのは「過敏性腸症候群」の患者にとって、それは恐ろしいものなのである。そう、「さし込み」が起こっても、途中で退出するわけにはいかないからだ。どんなに素晴らしい演奏であっても、一度退出すると2度と戻れない。しかも退出(もう脱出と言った方が良いかもしれない)すらできないケースもあるのだ。
「それなら、最初に便所に行っておけばいいだろう」という意見も出よう。昨日書いた取材中の「さし込み」に関しても、同じような意見が出るだろう。しかし、そうしたことを言う者は、「過敏性腸症候群」における下痢の発生について全く理解していない。どんなに準備していても、下痢は突然やってくるのである。拙者だって、取材や演奏会の前には、必ず便所に行っている。それでも、ダメなときがあるのだ。
最初に襲われたのは、高校生の時だった。曲は、三善晃氏の「ノエシス」(初演)、そしてマーラーの第2番だった。指揮は尾高忠明氏、演奏は東京フィルだ。この日は最初に不吉な予感がした。東京文化会館に着いて着席する前に、まず便所に行った。演奏会が始まり、「ノエシス」の素晴らしい演奏が終わって小休止。そこでまたも便所に行った。マーラーが始まる。この曲は作曲者の指定で、第1楽章と第2楽章の間で、少なくとも5分の休憩を取るようになっている。スコアを見ると、ちゃんと書いてある。この日の休憩は15分だった。すかさず便所に行く。
さあ、これでもう大丈夫、と思った拙者であった。ところがである。第4楽章でアルトが「O Roeschen roth !」と歌い出したあたりから、雲行きが怪しくなった。腹部に異常を感じたのである。曲の進行にともなって、具合はますます悪くなってきた。それでも我慢していた。席は1階中央真ん中なので、出るにも出られない。
第5楽章、合唱が「Auferstehn, ja auferstehn wirst du,…」と静かに歌い出す本来ならば感動的なシーン。もうその頃には、体調は最悪だ。いつ「爆発するか」と脂汗を流しながら、じっと客席で固まっていた拙者であった。もう、音楽を聴くどころではない。とにかく下痢を我慢しなければ。おお、何と悲劇的なことよ! 我慢に我慢を重ねて、拙者は耐えた。最後の音が鳴り終わり、拍手と歓声が響き渡った途端、拙者は席を立ち、ダッシュで便所に向かった。何とか間に合ったのである。その時の安堵感は、言葉に表せない。
誤解をする者がいるといけないのであえて書く。別に演奏のせいで、下痢をもよおしたわけではない。演奏は立派だった。悪いのは拙者のからだだ。
拙者、それからしばらくは、マーラー恐怖症になってしまった。再度マーラーの演奏会に行ったのは、それから6年後のことである。その時も第2番だった。指揮はベルティーニ氏、演奏は東京都交響楽団だ。このときは、幸い何の事件も起きず、素晴らしい演奏を堪能できた。「もう大丈夫」と思った拙者は、翌週も同じ組み合わせで9番を聴きに行った。この時も大丈夫だった。ただ、同行者が途中で気分が悪くなってしまう…というアクシデントはあったが。
それから、何度かマーラーの演奏会に行った。1回だけ同行者(現在の妻)の気分が悪くなる…という以前あったようなアクシデントはあったが、拙者は大丈夫だった。しかし、油断大敵。またも、下痢の恐怖に襲われるとは、思いもよらなかった。
ベルティーニ氏指揮の東京都交響楽団。場所はサントリーホールだった。曲は第3番。連続100分以上の演奏時間で休憩はなし。体調はさほど悪くなく、むしろ爽快だった。ただ念のため、開演前に便所に行っておいた。さあ、もう大丈夫、演奏を楽しもう。
ところが、である。第1楽章が始まってしばらくしたら、腹部に異常を感じた。そう、「あの感触」である。Universal版のスコアで言うと、練習番号で「24」あたりのところだ。でも「大丈夫だろう」と思っていたら、練習番号「39」あたりで、いきなり「さし込み」が来た。そして20年前の、あの恐怖が脳裏に蘇ったのである。あのときは、あと40分我慢すればよかった。しかし今度は、あと80分以上ある。いかにすべしか。
座席は1階前から4列目。しかもステージに向かってほぼ中央である。おまけに満席。動くに動けない状態だ。もう、これは耐えるしかない。覚悟を決めた。「さし込み」は断続的にやってくる。そのたび、必死で耐えた。脂汗をかきながら。幸い、第6楽章に至って、「さし込みは」治まってきた。これなら何とか耐えられそうだ。音楽も頭に入る。
しかし、練習番号「21」付近で、猛烈な「さし込み」が拙者を襲った。あともう少しだというのに。そして最後の音が鳴り終わったとき、拙者の体内は極限状態になったのだ。もう我慢できない。拙者は妻をその場に残して、便所にダッシュした。便器に腰を下ろした時の安堵感。ああ、忘れられようか。
このときの演奏は、大変に素晴らしかった。拙者が便所から戻ると、熱狂的な拍手と「ブラヴォー!」「きゃーっ」と大歓声が続いていた。この素晴らしい演奏を、心から楽しめなかったのは、残念でならない。恨めしや「過敏性腸症候群」め。
それ以来、拙者、マーラーの演奏会には行っていない。
|
|