住友郁治リサイタル=プログラム・ノート


手強い存在
--J.ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 作品5


 ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms:1833〜1897)が作曲家としての生涯で最初期に書いた3つのピアノ・ソナタ、特に第3番は、ピアニストにとって非常に“手強い”存在である。もちろん楽曲のそこここに聴衆を引き付ける瞬間はある。しかし曲が持つ巨大な構造を完全に手中のものとし、聴き手の興味を最後まで楽曲に向けさせるには、ピアニスト自身がいくつもの「壁」を越えなければならないからだ。

 高度な演奏技術を要することはもちろん、楽曲を詳細に分析した上で“聴かせどころ”を押さえての、聴衆に対する効果的なプレゼンテーションが要求されるのである。しかもピアニストの力不足を、曲は一切助けてくれない。奏者の力量が足りなければ演奏は直ちに崩壊、あるいは冗長極まりないものになってしまう。

 なぜか?

 まず、楽曲の構造が、いわゆる古典派ソナタの形式から外れ、弾き手にとって全体を纏め難いものとしている、という要素が挙げられよう。

 そもそも5楽章制という構造自体が古典派ソナタの枠に収まらず、全曲を纏め難くしている。4楽章形式とする“説”もあるが、明らかに誤り。確かに第4楽章と第5楽章は、それぞれアウフタクトで始まり、続けて演奏することが慣例化している。「attacca」で両楽章に連続性を持たせている版(楽譜)も存在する。しかしオリジナルのBreitkopf & Hartel版によると、第4楽章の末尾には明確な終止線が記されている。調性・曲調ともに、この終止線を境として一転する。原典をよく見れば、完全に独立した楽章であることが一目瞭然だ。このように5楽章制をとりながら、中央楽章(第3楽章)を中心とした対称構造をとるわけでもない。強いて対称性に着目するならば、第1と第5楽章の調性、第2と第4楽章の基調を緩叙としているくらいなもの。後年、ベラ・バルトーク(Bela Bartok:1881〜1945)が好んで使用したような「対称構造」と比較すると、対称となる楽章の構造的関連性ははるかに弱い。

 さらに第1楽章および第4楽章を除き、古典派の楽曲形式では説明できない、かなり自由な構造をとっている。第2楽章は3部形式、第3楽章・スケルツオ、第5楽章・ロンド形式、という解説もあるが、それほど単純な構造ではない。例えば第2楽章。A-B-A'=C-C'-C''-D(Cの変形)-D'=A-B-A-D''=コーダ、というかなり複雑な構造をとる。確かに大きく分けて3つの部分で構成するが、いわゆる3部形式ではない。また第5楽章は1小節目からのリズムおよびその変形と、40小節目から出る旋律とその変奏が全体を支配、これらが交互に出現し楽章全体を統一する。古典派でいう「ロンド形式」という枠には収まらない。

 古典派形式から外れたソナタというと、ほぼ同時期にフランツ・リスト(Franz Liszt:1811〜86)が作曲したソナタ・ロ短調が存在する。しかしリストのロ短調ソナタ、極めて少数の主題(動機)が全曲を貫く。それらが「循環」することによって、強烈な統一感を保っている。ブラームスの第3ソナタには、それがない。演奏時間が30分を超える単一楽器のためのソナタでありながら。

 このソナタを弾くピアニストは、個々の楽章および楽曲全体の纏め難さを克服した上で、長時間に渡って聴衆の興味を引き付けなければならないのだ。ピアニスト・住友郁治はこの第3ソナタを「形式の枠を崩壊させた、真にロマン派的作品」という。さて今晩、住友がこれらの“壁”を乗り越えて、いかにツボを押さえた演奏を展開するか。聴き物である。

 作曲年代:1853年。出版・初演:1854年。第1楽章:ヘ短調・Allegro maestoso・ソナタ形式、第2楽章:変イ長調・Andante espressivo、第3楽章:ヘ短調・Allegro energico・スケルツオ、第4楽章:変ロ短調・Andante molto・インテルメッツオ「回顧」、第5楽章:ヘ短調・Allegro moderato ma rubato。(使用楽譜:Breitkopf & Hartel)



前衛音楽家の“歌”
−−F.リスト、中-後期の作品群から

 フランツ・リスト(Franz Liszt:1811〜1886)は、さまざまな面において19世紀音楽界の前衛だった。まず、「片手が主、もう片手が従」という、古典派まで続いてきたピアノ曲の構造を根本から変えた。“両手を使ってメロディを紡ぎ出す”曲たちを世に送り出し、ピアノが持つ表現の可能性を飛躍的に広げた。ロマン派以降、現代に至るまでのピアノを題材とした音楽の基礎を築いたといっても過言ではない。
 「ピアノのためのトランスクリプション」という分野を確立したのもリストだ。リスト本人が自分自身の演奏技術を誇示するための作品群であったにせよ、新規分野を開拓してしまったことは疑いのないところ。そして、物語や情景、心境を楽曲として表現する「交響詩」の創出−−それは管弦楽だけでなく、ピアノ曲でも同趣旨の作品を生みだしている。さらに晩年の作品群における、機能和声からの離脱・・・。リストの前衛性を数え挙げればきりがない。「超絶技巧を多用したピアノ作品を量産した」という、一昔前の“音楽史におけるリストの位置づけ”は、この作曲家のごく一面を表しているに過ぎないのである。

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 リストは、歌劇を含むほぼすべての分野の作品を書いた。その中で充実した作品でありながら、膨大なピアノ曲の陰に隠れてしまっているのが歌曲である。しかし我々は、意外なところでリスト歌曲の片鱗を“ピアノ曲”として耳にしている。例えば有名な「愛の夢--3つの夜想曲」(Liebestraume -- 3 Notturnos:1850?)は、「高貴なる愛」(Hohe Liebe:1849?)、「わたしは死んだ」(Gestorben war ich:1849?)、「おお、愛しうる限り愛せ」(O lieb, so lang du lieben kannst:1845?)の、3曲の歌曲を素材としたトランスクリプションだ。今晩のプログラム後半で最初に登場する3曲も、歌曲を源としている。
 「ペトラルカのソネット 第47番」(Sonetto 47 del Petrarca)、「同 第104番」(Sonetto 104)、「同 第123番」(Sonetto 123)は、いずれもリスト中期の傑作ピアノ曲集「巡礼の年報・第2年“イタリア”」(Annees de pelerinage, Deuxieme annee "Italie")の収録作品。同作品集は7曲で構成、個々の曲は1838〜1849年の間に順次発表/改訂。1858年にSchottから「巡礼の年報・第2年」として出版している。
 第2年を構成する7曲は、1837〜1839年のイタリア旅行でリストが得た、芸術作品からのインスピレーションをベースに作曲した。うち3曲は当初、ピアノ曲としてではなくテノール用歌曲「ペトラルカの3つのソネット」(3 Sonetti del Petrarca:1838〜1839)として作曲している。1846年に、これら3曲をピアノ用にトランスクリプト。さらに1850年頃、このトランスクリプションを改訂。最終的に巡礼の年報・第2年に組み込んだ。
 もともと歌曲だったとは言え、これら3曲はリストの他のトランスクリプションと同じく、あたかも最初からピアノ曲であったかのように鳴り響く。しかしながら本日、演奏者の住友は「あえて、曲に内在する“歌”を全面に押し出しての表現を目指す」としている。なお、各曲楽譜の冒頭には原曲となった歌曲の歌詞である、フランチェスコ・ペトラルカ(Francesco Petrarca:1304〜1374)による詩集「カンツオニエーレ」(Canzoniere:1350)からのソネット(14行詩)が記載されている。(使用楽譜:Editio Musica Budapest・Neue Liszt Ausgabe)

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 1860年代以降、リストの作品は大きく転換する。ここで新たに加わった要素は2つ。ひとつは「神への傾倒」、もうひとつは「機能和声からの離脱」である。前者は1861年にリストがローマで僧籍に入って以来、そして後者は1870年以降の諸作品で、徐々にその姿を現す。「巡礼の年報・第3年」(Annees de pelerinage, Troisieme Annee)は、これらリスト後期作品の特徴が顕著に現れた作品集だ。
 巡礼の年報・第3年も第2年と同様、7曲で構成。うち、第6曲「葬送行進曲」(Marche funebre)は1867年、第5曲「哀れならずや--ハンガリ風に」(Sunt lacrymae rerum -- en mode hongrois)は1872年、本日演奏する第4曲「エステ荘の噴水」(Les jeux d'eaux a la Villa d'Este)を含むその他5曲は1877年の作曲。7曲まとめての出版は1883年にSchottから。いずれも増和音の適用と半音階進行の多用が目立ち、リスト特有の華やかな音色は陰を潜める。
 そうした曲集の中にあって、「エステ荘の噴水」のみ、かつての“超絶技巧”の残映が光り、アルペジオやトレモロなど“水の流れを象徴する細かい動き”が全曲を覆う。ただし冒頭からいきなり出現するアルペジオは9度の和音。作曲当時としては極めて斬新な和声進行を見せる。第1小節から143小節は嬰へ長調を基調とするが、時折嬰ハ長調が入り込む。その後、ニ長調=嬰ヘ長調=イ長調・・・と転調を繰り返すが、ひとつのフレーズの中で、必ずしも調性は一定ではない。最後期の作品のように、調性が曖昧になるほどではないが、機能和声から離脱しようとする試みが随所に見える。
 144小節目、ニ長調に転じる箇所。新約聖書・ヨハネの福音書・第4章第14節、サマリアにおけるイエス・キリストの言葉を、リストは楽譜に記している。「・・・されど我の与える水を飲む者は、永遠に渇くことはない。我の与える水は彼の中にて泉となり、永遠の命の水となり湧きいでる」(...sed aqua, quam ego dabo ei, fiet in eo fons aquae salientis in vitam aeternam.)。ここにリスト後期における「神への傾倒」の一端が現れている。(使用楽譜:Editio Musica Budapest・Neue Liszt Ausgabe)

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 さて、リストが確立した「交響詩」という分野。「前奏曲」(Les preludes:1848、改訂1852/53)や「タッソー、嘆きと勝利」(Tasso, Lamento e trionfo:1849、改訂1850/51)などが著名である。交響詩と銘打ってはいないが管弦楽曲「レーナウ“ファウスト”からの2つのエピソード」(Zwei Episoden aus Lenaus "Faust":1860)も、情景と心理を描写するという点において、交響詩と同系列の作品と位置づけられる。このうち第2曲が「村の居酒屋での踊り--メフィスト・ワルツ第1番」(Der Tanz in der Dorfschenke -- Eester Mephisto-Walzer)である。
 ・・・悪魔メフィストと一緒に村の居酒屋へやってきたファウスト。踊りの輪にいる一人の娘に一目惚れ。メフィストの魔力で2人は惹き合い、村人から借りたヴァイオリンをメフィストが弾き出すと、踊りは熱狂的に盛り上がる・・・。
 このダイナミックな情景を描いた管弦楽曲をピアノ独奏用に編曲、リストの友人で大ピアニストだったカール・タウヅィヒ(Carl Tausig:1841-1871)に献呈した作品が、現在我々がしばしば耳にする「メフィスト・ワルツ第1番」である。成立経緯から見ても、“ピアノ版交響詩”と位置づけられる作品だ。ちなみにリストは「メフィスト・ワルツ」を4曲執筆している。第2番(1880〜1881)は、管弦楽を原曲としてピアノ独奏に編曲。第3番(1883)と第4番(1885、未完。注:「調性のないバガテル(Bagatelle ohne Tonart:1885)」とは別の作品)は、最初からのピアノ独奏曲である。
 なお本日演奏するメフィスト・ワルツ第1番は、Editio Musica Budapest・Neue Liszt Ausgabeの最新版(1997年版)を使用。ただし従来版の451小節目と452小節目の間に挿入してある新発見の付加箇所は、演奏者の意図により、あえて省略して演奏する。

(かずみ=ジャーナリスト、ゆみこ=ピアノ講師)


98年9月20日印刷公表済み
転載厳禁


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