Duo T&M
二人だけのオーケストラ
華麗なるピアノ連弾編曲の世界
Part II


演奏会へのプロローグ
松永 晴紀(茨城女子短期大学教授) + たなか かずみ(ジャーナリスト)



編曲における想像力と創造力
松永 晴紀=茨城女子短期大学教授

matsunaga「華麗なるピアノ連弾編曲の世界」の2回目のシリーズが始まる。その初回から、ドビュッシーの「海」のような、並のデュオではとうてい演奏不可能な超難曲が登場するのも、演奏者のシリーズにかける強い意欲と、自信が感じられる。

ところで、この「海」では、連弾版への編曲に当たって、ドビュッシー自身による各種の絶妙な「工夫」があちこちに施されている。管弦楽曲をピアノ曲に編曲する際の「工夫」は、なにも「海」だけに限らず、多少の差はあってもシリーズの全曲に認められるのだが、一般的にそうした「工夫」はスコアと連弾譜を詳細に比較しないと目立たないことが多い。そこで、管弦楽曲をピアノ曲に編曲する際の「工夫」、つまり「編曲における想像力と創造力」を駆使した顕著な例を挙げよう。

まず、ピアノ独奏曲だが、聴けばすぐ分かる例。シュトラウスII世の名曲、「美しく青きドナウ」を一度も聞いたことのない人はいないだろうが、最近ではシュルツ=エヴレルによる、ピアノ・ソロのためのパラフレーズ、「美しく青きドナウによる演奏会用アラベスク」も、CDや時には実演で耳にする機会も増えてきた。原曲の冒頭での期待に心が震えるような弦楽器によるトレモロが、この華麗な編曲では、まるで淡い虹色の霧が立ち昇るような、まさに「アラベスク」そのものといった繊細な装飾的パッセージに書き換えられている。原譜に忠実ではない、こうした変更は邪道だろうか? だが実際、この方が原曲の雰囲気を良く伝え得る。単に音符そのものを忠実に「置き換え」ただけでは、音楽の効果や雰囲気を別の演奏形態用に「変換」できない場合が多いのだ。

次に、楽譜を比較すれば一見して分かる例を挙げよう。2001年に、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」の作曲者自身による連弾版がドーヴァー社から刊行された(ペータース版のリプリント)。その「序曲」では拍子が変更(2/2から4/4へ)されており、この方が譜面上に踊る細かい音符から軽妙な妖精の動きが良く伝わってくるが、もし全体を詳細に比較すれば、ピアノ書法と管弦楽法に完全に熟達していた、この早熟な天才が、どれほど冴えた編曲のセンスを発揮しているかが理解できよう。

豊岡氏御夫妻による、極めてユニークなシリーズは、普段はオーケストラによって演奏される作品の連弾による演奏が楽しめるだけでなく、「編曲」に関する誤解を一蹴し、編曲作品再評価の絶好の機会となることを確信している。


再び、新たな出会いが…
たなか かずみ=ジャーナリスト
kazumi昨今、ピアノ・デュオ演奏会の曲目を見ると、少しずつではあるが、管弦楽の連弾用、あるいは2台ピアノ用編曲がステージに上る機会が増えている。10年前だったら、とても考えられないことである。こうした下地ができたのは、管弦楽のピアノ・デュオ用編曲を積極的に、そして地道に演奏し続けてきた人たちがいたからである。彼らは「デュオ用編曲は、管弦楽の単なる代用」という偏見を乗り越えて、これらの曲をひとびとにに紹介しようとして、日々様々な努力を重ねてきた。音楽史の中で埋もれてしまった編曲を再び聴衆の元へ届けたり、演奏者自身がデュオ用編曲を作り世に送り出してきた。そのような努力が功を奏したこともあって、いまだにピアノ・デュオ用編曲への偏見は根強い現実はあるものの、これに興味を持つ聴衆、そして演奏家が増えてきたことも、また事実である。

こうした下地を作った演奏家の1組に、豊岡正幸・智子夫妻「Duo T&M」がいる。聴衆も演奏家も、誰もが感心を持たなかった時から、管弦楽の連弾用編曲作品を地道に演奏してきたデュオである。豊岡夫妻は、2002年2月から9月にかけて、こうした作品ばかりを集めた演奏会を集中して催した。ここでは、V.カリンニコフの「交響曲第1番」をはじめ、普段は耳にすることが困難な、数々の連弾用編曲を改めて世に送り出したのである。この一連の演奏会で、日本において初めて「音」になった曲も数多くあった。それだけではない。欧米においても、ほとんど省みられることのなかった曲も、日本の聴衆の耳に届いたのである。

2003年10月。その第2弾が始まる。R.ワーグナー「タンホイザー序曲」、P.I.チャイコフスキ「交響曲第4番」、N.リムスキー=コルサコフ「シェエラザード」、S.V.ラフマニノフ「死の島」、I.ストラヴィンスキ「春の祭典」…。数々の管弦楽の名曲が、1台のピアノ、4本の腕によって再び鍵盤上に展開される。それは管弦楽の原曲---そのスケッチとなったオリジナルの形もあるが---とは、ひと味違った形として、聴衆の耳に響くことだろう。決して管弦楽の代用ではない、「連弾用の曲」として。そう、そこには聴き慣れた曲たちとの、新たな出会いがある。あたかも、身近な人の、もう1つの別の姿を見るような…。


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(C) Harunori Matsunaga & Kazumi Tanaka