<弐> 他人の空似 --- 著作権法の乱用を愁う

 著作権。これを守ることは、とても重要な行為です。著作権に関して注意を払わない奴は、まともな文明人ではないといっても過言ではありません。

 でもね、乱用はいけません。著作権を逆手にとって権利ばかりを主張すると、時には文化的損失になります。例えば1つの出版社が楽譜を絶版にしたまま抱え込み、楽譜を表に出さないがために生じる文化的な損失が挙げられます。折角良い音楽があるのに、著作権が障壁となって複写もままならない・・・。そんな高い次元の話でなくとも、たとえば「嫌がらせ」や「意地の張り合い」の道具に使われたりすると、著作権本来の目的が失われてしまいます。



 98年7月のある日、日頃から著作権について神経を配っているわたくし(夫・かずみ、以下同じ)を唖然とさせる訴訟が起こりました。“作曲家”と称する小林亜星氏が、同氏が“作曲”したCMソング「どこまでも行こう」と、服部克久氏が作曲した「記念樹」が酷似しており、これは著作権の侵害である、と東京地方裁判所に提訴した事件です。一方の服部氏は、9月21日までに「記念樹」の著作者が服部氏自身であることの確認を求める反訴を東京地裁に起こしました。



 さて、どちらの曲も知らなかった、わたくしです。もちろん著作権に対する関心は重大。どれだけ似ていて訴訟が発生したのだろう、と両方の曲を比較したら・・・何だ! 全然別の曲じゃない! 妻・ゆみこに両方の楽譜(といっても旋律が記載してあるだけの代物ですが)を見せたら、やはり「どこが同じなの???」(譜例1−1,2)。  それぞれ、旋律を見ると、長調の音階(音列)を並べているだけです。曲を作る上で、あえて「盗作」などしなくても、自然に作れる音列です。機能和声の範囲で、しかも「歌える」という条件を付けたなら。

 そもそも機能和声の範囲で、しかも自然に歌えるという条件を付けたら、使用できる音列は限られてきます。作曲者の出身国(および使用する言語)、そして「歌う」ということを前提としたらば、なおさら限定されます。無意識で“似たような”旋律を作ってしまうことだって、当然ありうります。

 よくよく見れば、偶然に似ている曲もたくさん。例えば山内佳鶴子氏作詞、寺島尚彦氏作曲の「たのしいね」に着目してみましょう(わたくしは、この曲、好きです)。冒頭2小節の旋律、リズムをちょっと変えれば、ずばり「どこまでも行こう」の旋律になってしまいます(譜例1−3)。



 そんな例は、あちこちにあります。ここに究極とも言える例があります。方や日本の「天長節」の歌、方や「ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)国歌」(譜例2−1,2)。歌い方を工夫すると、どちらも同じ曲のように聞こえます。この類似性は、学習院大学教授の岩淵達治先生が、以前からご指摘されていらっしゃいます。筆者かずみは、かつて岩淵先生ご主催の演奏会で歌ってみて大爆笑。

 作曲年代から見ると、明らかに「天長節」の方が先なのですが、誰も「ドイツ民主共和国国歌」を「盗作」だとは非難していません。ちなみに旧東ドイツ国歌の作曲者は、あの、ハンス・アイスラーです。余談ですが、「天長節」を歌ったコンサートで、最初から譜面と歌詞を見ずに歌えた(要するに“知っていた”)のは、筆者かずみだけでした(注:わたしゃ、右翼でも左翼でもありません)。



 同様の例は、日本の歌謡曲にもあります。グループサウンズ時代の名曲「ザ・タイガース」の「モナリザの微笑」(橋本淳・作詞、すぎやまこういち・作曲)の歌い出しが、リムスキ=コルサコフ「シェエラザード」の「カレンダー王子の物語」に酷似しているのは有名な話。都はるみさんの「北の宿から」(阿久悠・作詞)が、ショパンのピヤノ協奏曲第1番、第1楽章第1主題の“双子”であることは、さらに有名。どちらかのリズムをちょっと変えるだけで、さらにそっくり感が増します。なお「北の宿から」の“作曲者”は、小林亜星氏。小林氏、“作曲家”と称しながらショパンのピヤノ協奏曲第1番を聞いたことがない、とおっしゃるのでしょうか? それともショパンの曲は著作権が切れているので引用しても良いとおっしゃるのでしょうか??? (おそらく小林氏は「偶然だ」あるいは「似てないっ!」と、お答えになるでしょうね)



 ・・・と言うわけで、これだけ似たような音楽がたくさんあるわけです。先述のように、機能和声の中で“歌える”曲を作ろうとしたら、無意識のうちに似たような音楽が出来上がっても仕方がないことではないでしょうか?(「どこまでも行こう」と「記念樹」が、似ているとはとても見えませんが)。こうした中で、単に「似ているから」だけで、「著作権の侵害」とするのは如何なものか、と多大な疑問を抱くわたくしです。



 さらに言えば作曲という行為。一般的な機能和声で定量記法の範囲に限定すれば、(1)音の高低、(2)リズム、(3)ハーモニー、(4)最終的な演奏形態、をすべて確定して完結するものです。じゃ、J.S.バッハの「フーガの技法」などは(4)が欠けているじゃないか、という意地悪な指摘もあるでしょう。でもね、あの曲は種類は問わないけれど、鍵盤楽器で演奏できるように“一応確定”してあるのですよ。またバロック期の通奏低音の扱いだって「あるていど決まった作法」があるわけですね。

 つまり旋律だけ確定しても、作曲という行為にはならないわけです。しかも(2)〜(4)のいずれかを弄くってしまえば、違う曲だって同じように聞こえさせてしまうことも可能です。たとえば「どこまでも行こう」と「記念樹」を酷似した曲として人に聞かせることも可能です。

 逆に(2)〜(4)を弄くることによって、同じ曲をまったく別の曲のように聴かせてしまうこともできるわけです。例えばジャズ。オリジナル曲は別として、演奏するアーチストが「既存品」を、いかに自分流儀に料理して新たな魅力を打ち出すか、が鍵となります。余程よく聴き込むか、原曲名を明らかにしないかぎり(通常は明らかにしていますね)、原曲が何だか見当もつかない、といったケースもしばしば(それが楽しいのですけれど)。



 つまるところ、聴覚だけの判断では、2つの曲が同一曲であるかを判別するのは困難。さらに、「聴いた感じ、または旋律が似ている」だけでは著作権を侵害した、という主張を正当化するのは不可能に等しいのです。また、「聞いた感じが似ている」で著作権侵害を主張するのであれば、著作権法の乱用という暴挙以外の何物でもないことは、ちょっと作曲や音楽理屈をかじった人であれば、容易に理解できるでしょう。

 もし曲の著作権侵害を主張するのであれば、(1)〜(4)に関して、数学的に「似ている」ことを証明する必要があるでしょう。しかも(1)だけをとってみても、「ある音の次に来る音の確立は12分の1である。その次に来る音の確立は・・・」「さらに曲全体おける音の分散は・・・」などなど、統計的手法を駆使しないと証明は不可能です。さらに(2)〜(4)に関しても、同様にかなり高度な統計面での証明が必要です。それらをすべて加味した上で、初めて「盗作」であるということが証明できます。小林氏の訴状では、こうした統計学を駆使した主張は見られない模様です。「全体の70%が似ている」だけでは、とても著作権の侵害などを主張することはできません。



 これらを勘案したところ、小林氏の行為は、著作権法の乱用以外の何物でもない、とわたくしは見ております。今回の訴訟の背景には、「音楽そのもの以外の要素」が絡んでいるようですが、そんなことは、どうでもいいこと。著作権法本来の目的を逸脱するような訴訟行為--今回のような場合、徹底的な数学的証明のない、あるいはできない提訴--は、まじめに著作権のことを考える者たちにとっては、迷惑極まりない、あるいはそれを愚弄する行為であります。

 著作権を「文化的権利の保護」以外の目的で使ってほしくありません。裁判所が適切な証人/証拠の基に、適切な判断を下すことを期待しています。

(98年9月28日)




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