「罪作りな男」---其の壱

 世の中には、様々な意味で「罪作りな人」が存在致します。わたくし(夫・かずみ)の回りにもたくさんいますね、良い意味でも悪い意味でも。今回は、そうした中で、わたくしの睡眠時間と休暇を奪いに奪った、罪作りな方のお話しです。加えて、わたくしの眼球を疲労させ、財布の中身を減らすのに、大変な貢献をして下さった方、お二人です。残念ながらお目に掛かったことがないのですが・・・。

 そのうちのお一方。
帚木蓬生先生であります。ご本業は某病院の精神科の先生。もちろん「帚木蓬生」はペンネームです。本名とご勤務先を存じてはおりますが、伏せて置くことにいたしましょう。この精神科の先生、もう20年近く、1年か2年に一度、わたくしの睡眠時間を徹底的に奪った上、お財布の中身を減らすのにご協力下さっていらっしゃいます。最初に作品に出会った時から、いったん手に取ると読み終えるまで本を離せない、といった作品をお書きになっていらっしゃいます。数ある御著書のうち、愚作と判断したのはたったの1冊だけ。ただ、重いテーマの作品が殆どなので、読後は恐ろしい疲労感を覚えます。しかし、その疲労感が麻薬のように(あ、わたくしは「麻薬」などやったことはありませんが・・・想像です)心地よいのですね。しかもラストシーンでは、どの作品でも(愚作とした1冊を除く)涙がこぼれて活字が霞んでしまうのであります。

 帚木先生の御著書との出会いは偶然でした。今では随分と著名になられましたが、最初に出会った頃は、「乱読家」であったわたくしでも知らないお名前でした。20年近く前、ある大学の研究施設の学生だった時、何かの用事で老母とその友人と、新宿の喫茶店で落ち合いました。老母とわたくしとが先に着いて、お茶を飲んでいたところ、老母の友人が登場。手には大きな包みを抱えています。

 挨拶が済み、一頻りの用件が済んだ後、老母の友人は包みの中から、1冊の本を取り出しました。「これ、娘が装画を担当させて頂いた本です。よろしければお読み下さい」。何でも著者と老母友人のお嬢さんは、どちらもフランス在住中にご近所だったとのこと。その縁で表紙と扉の絵を描くことになったとのことでした。その本こそ、帚木蓬生先生の御著書「カシスの舞い:la Danse de Cassis」でありました。ちょっと読んで見ると、興味をそそられました。わたくしは、何度も辞退する老母友人から、定価でその本を買い取りました。それが、現在に至るまで深い沼に足を突っ込んでしまった契機となったとも知らずに。

 さてその晩、何気なくその本を読み出しました。これが地獄への第一歩。それは南フランスの脳医学研究施設における人体実験の物語。しかも文章が実に流麗で、まだ見ぬカシスの明るい街を目の前で見ているようになって。ついに、ぐいぐいと物語に引き込まれてしまって。わたくしの当時の担当教官から「明日の昼までに読んでおくように」と渡されていた文献(しかも不得手な英語)をほっぽりだして、「カシスの舞い」にのめり込み・・・。8割ほど読んで気が付いたら午前3時。さあ大変。後ろ髪を引かれるように「カシスの舞い」を閉じて「宿題」を始めたわたくしでありました。その宿題、まともに出来ず、担当教官から「厳重注意」を言い渡されたことは言うまでもありません。家へ戻って残りを一気に読んで。
恐ろしいまでの緊迫感と、最後の安堵。読み終えて涙が止まりませんでした。

 ・・・と、これが現在に至るまで繰り返されておるわけであります。「カシスの舞い」以前に書かれた作品から最新作まで、ほぼすべて読破している、わたくしです。翌日の仕事に差し支えることがあっても、ついつい新作が出ると読んでしまうのです。わたくし、まったく学習効果がありません。

 天才的細菌学者の苦悩の人生を残虐かつ平穏に描いた
「白い夏の墓標」(新潮文庫)。戦時下のベルリンにおける日本軍将校の日記から、緊迫した日独関係と壮絶なる日々が明らかになる「総統の防具」(日本経済新聞社)。心清らかな人たちが登場し、彼ら/彼女らが次々と徹底的に不幸な局面に追い込まれる「閉鎖病棟」(新潮社)。戦中は「お国のために」と決死で働きながら、戦後は一転して「戦犯」として追われる立場に追い込まれた市井人の姿を緻密に記した「逃亡」(新潮社)。「安楽死」は是か非かを読者に問いかける「安楽病棟」(新潮社)。その他、たくさんの御著書がありますが、どれも精密かつ流麗な文体で---実はこれが難しい。精密になると流麗にならず、流麗になると精密になりにくい---描かれております。

 今、わたくしの手元にあるのは新作
「空山」(講談社)。即座に読み始めたいのですが、本日時点で業務上書評を頼まれている書籍が7冊もあります。そろそろ締め切りが迫っているのに2冊しか読み終えておりませんし、その2冊すら書評を1行も書いていません。かなり追いつめられた状況なので、今日から4日間、都内の某ホテルに自分で自分を缶詰にして、与えられた本を読みまくって、書評を書きまくることに致します。一般に公開される書評なので、丁寧に読んで、丁寧に書かないと著者に失礼になってしまいます。

 ・・・と言うわけで、もうお一人の「罪作りな方」については、また次回に。そう、そのお一方の書評に関しては、国際的オルガニストの
松井直美先生が、ご自身のページで公開されていらっしゃいます。(2000年8月13日記)

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